エリヤ

−神に仕える孤独者−




1.人物像



エリヤとは「主こそ神」の意味。時代背景は紀元前9世紀前半、ソロモン以後王国は分裂し、霊的状態も下る一方でした。特に北王国イスラエルにおいて偶像礼拝が行われ−これを聖書ではたびたび"ヤロブアムの罪"と言います−、まさに霊的状況は地に落ちていました。時の王はアハブという最悪の王であり、その妻は異邦の偶像礼拝者イゼベルでした。イゼベルは主の預言者たちを粛清していました。

このような中で主によって立てられた旧約時代を代表する預言者がエリヤでした(BC875-848)。彼は霊的な堕落や王の悪行を断固指摘し、悔い改めを求め、イゼベルとの間で過酷な戦いが繰り広げられます。時に大胆に主が真の神であることを証しする一方、イゼベルを恐れて逃走し、一人山ごもりする際に、ささやかな神の声を聞いて再び立ち上がると言う、きわめて人間的な側面を持っている人物でした。

その油塗られた務めはエリシャに継承され、彼自身はエリシャの見つめる中で、生きたまま天に携え上げられました。その後新約に至り、変貌の山においてイエスの姿が変わった時、モーセとエリヤが出現し、イエスの最後について語り合いました。



2.主要なエピソードとその霊的意義




2.1.飢饉を預言する


物 語



時はアハブの治世下にあって、偶像礼拝がはびこり、霊的堕落の極致にありました。エリヤは王の前で敢然と3年間の飢饉が到来することを予言し、自らも主の託宣に従ってヨルダン川東のケリテ川のほとりに身を隠しました。そこで彼は烏によって養われますが、はたして川は干上がります。再び主の言葉にしたがってシドンのツァレファテに移住し、ひとりのやもめの元に身を寄せます。彼女は死をも思う極貧状態にあったのですが、エリヤの言葉に応じて彼に食べ物を提供すると、主の言葉があり、その言葉のとおり雨が降るまでは彼女のかめの粉とつぼの油は尽きることがありませんでした。この間、彼女の息子が死んでしまうのですが、エリヤはその亡骸の上に3度身を伏せて祈ると、彼は生き返りました。女はエリヤが神の人であり、その口の主の言葉が真実であることを証ししました(1列王記17章)。

霊的意義



まことの神を忘れて、霊的姦淫に走ることは恐るべきことです。クリスチャンは露骨な偶像礼拝は行わないにしても、この世の富や成功、あるいはキリスト教会における評価や名声を追求し、あるいは自分の才能や知性などに頼って生きる可能性が多分にあります。これはすべて霊的に見れば偶像礼拝に他なりません。神を差し置いて何かを追求し、神以外の何かに頼り、当てにすること自体が偶像礼拝です。また自分の野心とか栄光のために生きることも同様です。このような時には必ず霊的な飢饉に見舞われます。私たちの内的状況は干上がってしまい、心はカラカラに枯れてしまうのです。

このような時に神はその憐れみによって必ずある種の人を遣わして、そのことを指摘されます。神はその人をエリヤとして用い、「主こそ神である」ことを語るのです。問題は私たちがその人を見て、その人の言葉を拒否するのか、あるいはその人の背後に働く主の御手を感知して、その言葉に応じて悔い改めて主に立ち返るか、この選択を迫られます。そしてこのシドンの女のように自分にあっては極貧状態であっても、エリヤの言葉に信仰によって応じるならば、そのかめとつぼの中身は尽きることがなく、常にいのちの養いに与ることができます。

しかもこの時死んだ者がよみがえります。エリヤは神の言葉の託宣でしたから、ある面で神のロゴスの受肉であるイエスのタイプです。3回亡骸の上にエリヤが伏すことは、死んだ者が神の言であるイエスと一つになることの予型であり、この同一視によって3日目の復活が起きるのです。その復活の実際は、もちろんイエスにおいて成就されます。そして私たちもこの女と共に、まことに神の言葉は真実であると証しすることができるのです。


2.2.バアルの預言者との対決


物 語


イゼベルの手を免れた唯一の主の預言者であるエリヤは、民に対してバアルにつくのか、主につくのかの決断を迫り、450人のバアルの預言者と対決します。バアルの預言者たちは1匹の雄牛をその祭壇に置き、バアルの名を呼び、自らの体を傷つけたりして、祭壇の周りを踊りますが、何の変化もありませんでした。一方エリヤは壊れていた主の祭壇を建て直し、その上に雄牛を置き、薪にも雄牛にも水を注ぎます。そして彼がアブラハムイサクヤコブの神に祈りますと、天からの火によってすべては焼き尽くされます。こうして民は主こそ神であると知り、バアルの預言者を捕らえ、エリヤは彼らを処刑しました。すると雨雲が起こり、激しい雨が降って飢饉が去りました(1列王記18章)。

霊的意義



バアルの神とはカナンの地の土着の宗教であり、豊穣をもたらす神でした。その妻は恋と戦争の女神アシュタロテであり、バアル信仰には肥沃さを求めるために、神殿娼婦や男娼によって淫行が行われました。新約聖書にあっては、ヘブル語のバアル・ゼブールからベルゼべルと呼ばれ、サタンを意味します。私たちにとってもこの世における成功や豊かさの追求は、この世の君であるサタンに仕えることに他ならず、まさにバアルに仕えることを意味します。この時バアルの預言者たちがしたように、派手なパフォーマンスがなされますが、同時に自らの体を傷つけることになります。現在もこの世の君に仕えるならば、同様の事態に陥ります。

そのような時には私たちはどちらにつくのかを明確に宣言する必要があります(1列王記18:21)。同時に私たちもエリヤと同様に壊れた祭壇を建て直す必要があります。今や私たちが神の神殿であり(1コリント3:16,17)、私たちの霊において霊と真理による礼拝をすべきなのです(ヨハネ4:23)。祭壇を建て直すとは、私たちの思いを主に転帰し、霊と魂すべてをもって主を愛することに他なりません(マタイ22:37)。この時私たちの内にあるバアルの霊は天からの火によって焼き尽くされ、主こそが神であることを知り、私たちの乾いた心は天からの霊的雨によって潤され、霊的な飢饉も去るのです。


2.3.イゼベルとの対決



物 語



バアルの預言者たちを処刑したエリヤに対してイゼベルの怒りは燃え上がります。エリヤは彼女を恐れて、逃げ出してしまいます。こうして40日40夜をかけて、かのモーセ律法を神から得たホレブの山(シナイ山)に落ちます。ここでエリヤはイゼベルによって命を狙われていることを主に申し上げると、主は彼に対して、ご自分の前に立つように命じます。すると彼の前を主が通り過ぎられましたが、主は激しい大風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられませんでした。むしろ火のあとに、かすかな細い声が聞こえました。主は神の民はエリヤ一人ではなく、7,000人が残されていることを告げ、彼を励ましました(1列王記19章)。

その声によって再び立ち上がったエリヤは山を下り、途中で後継者となるエリシャと出会い、彼に外套を渡しました。この頃、北王国はアラムの王ベン・ハダデの侵攻を受けていました。アハブはイゼベルの計略に従ってナボテを謀殺し、そのブドウ畑を奪い取りました。主からの託宣を得たエリヤはその悪事を糾弾し、アハブとイゼベルの悲惨な最期を預言しました。はたしてアラムの王との戦いにおいて、エリヤの預言の通りにアハブは惨めな最期を遂げ(1列王記22:34-38)、しばらくしてイゼベルも、遺骸が犬に食われるという悲惨な死によって、ついに自らの偽りの人生を閉じます(2列王記9:33-37)。

霊的意義



イゼベルはツロとシドンの祭司であり王であるエテバアルの娘であり、政治的同盟を意図してアハブと結婚し、主の預言者を粛清し、忌まわしい偶像礼拝をイスラエルに蔓延させました。この女は黙示録においてテアテラの教会に霊的姦淫をもたらした者として描かれています。テアテラの意味は「香の祭事」であって、見かけが派手な仰々しい儀式に満ちていても、その実際は偶像礼拝であって、霊的な姦淫に他ならない実行に満ちている教会のあり方を暴露しています。

イゼベルの霊は今日においても教会の中でも活発に働いており、真の男子であるキリストを差し置いて、指導権を握り、教会を背教へと導いています。特にこの霊は男性を抑えて女性が指導権を取る形で働きますが、この時神の秩序が乱され、必ず混乱が生じます。社会でも女を通してこの霊が働きますと組織は混乱し、多くの人々が苦しむ結果をもたらします。そしてしばしば理由もなく嫉妬などに駆られた感情的な粛清が行われます。

エリヤも勝利したまさにその直後にその脅威に曝され、神の民として孤独を覚え、逃走するわけですが、モーセと同様にホレブの山で主の声を聞いて、再び立ち上がることができました。ポイントは主の声は激しい現象の中にではなく、ささやかな細い声として聞こえることです。神の声を聞くのはエリヤと同様に孤独の時であるのです。私たちもしばしば目に見えるものによって騙されて、主ご自身を見失うとき、イゼベルの脅しに屈しますが、しかしささやかな御霊による神の声を聞くときに力を得るのです。また神の民はレムナント(残された者たち)であることを知ります。私たちはつい目に慕わしい派手なパフォーマンスが行われ、人々が多く集まる場所を慕いますが、神はレムナントを通してご自分の業をなされるのです。

神は公義によって治めておられます。アハブやイゼベルのような悪事は必ず惨めな最期によって裁きを受けるのです。


2.4.天に上げられる



物 語


アハブの後アハズヤが王として立ちますが、バアル・ゼブブに伺いを立てるなど、霊的状態はアハブと変わりありませんでした。その治世においてもエリヤは預言者として主こそ神であることを力ある業によって語り続けます。同時に後継者であるエリシャを霊的に訓練しました。二人は行動を共にし、エリヤの手によって外套でヨルダン川の水を打つと、川の流れが分かれるしるしも行われました。エリヤがエリシャに、何を求めるのかと問いますと、エリシャはエリヤに対して、エリヤの霊の二つ分を求めました。エリヤは自分が取り去られる場面をエリシャが見るならばそれがかなえられると告げます。すると1台の火の戦車と火の馬が現われ、ふたりの間を分け、エリヤは天へと引き上げられていきました。こうしてエリヤの霊はエリシャの上にとどまり、その務めはエリシャへと継承されました(2列王記2章)。

霊的意義



エリヤの霊的な務めは現在もなお継承されています。その後のエリヤの霊を受けたエリシャを通して、さらに何人もの預言者たちを通して神の働きは継承されていきます。新約の今日においてもこの霊は御霊によって私たちに継承され、霊的に堕落したこの世に対して主こそ神であることを証しし、悔い改めを宣べ伝えるのです。

私たちが神の国のための務めに召されるときもエリシャとまったく同様です。適切な油塗られたリーダーシップに服することは幸いです。服するときに油は滴り流れ落ち、その霊も継承されるのです(詩篇133篇)。私たちもエリシャと同様に神の務めのために、エリヤの霊の二つ分を大胆に求め、エリヤの神はどこにいるのですか、と問い掛けるときに奇跡をもって神は応えて下さるのです。自分の召命を知ることはその後の人生を一変します。旧約聖書においては死を経ずして天に引き上げられたのは、エノク(創世記5:24)とエリヤの二人です。両者とも神と共に歩んだのです。私たちもつねに神と共に歩むならば、死を経ずに携え上げられる幸いに与ることができます(→「携挙とは」)。



3.神の全計画における意義



エリヤはメシアの到来の備えをする人物と言えます。そこで新約においてはバプテスマのヨハネが新約のエリヤと見られたりもします(マタイ11:14など)。また同時に真の預言者であるイエスのタイプとも言えます。事実イエスはエリヤの再来とも思われました(マルコ6:15など)。

エリヤは神に対して自らを深く委ね、主こそ神であることを大胆に証します。イエスも御父に従い、御父の言葉を大胆に語りました。エリヤはわずかの小麦粉と油でやもめを養い、イエスも5つのパンと2匹の魚で5千人を養いました。エリヤは祈りによって死んだ子供をよみがえらせ、イエスも口の言葉によって死者を起こしました。エリヤは40日の逃避にあって山の中で一人で神の声を聞き、イエスも40日間の荒野の試みにあって、神の言葉によって勝利しました。エリヤもイエスも、その生活は祈りの生活であり、真の預言者でした。エリヤはイゼベルの霊との対決などを通して、真の神を証ししました。イエスもこの世の君と対決して勝利されました。エリヤは神に出会うための道を備える存在でした。イエスはご自身が御父に至る道でした。

このようにエリヤにおいて啓示された諸々の預言者としての資質は、実際であるイエス・キリストにおいて実現するのです。イエスこそ真の預言者であり、霊的堕落にあって主こそ神であることを証しし、徴と不思議を行い、死人を生かし、神に至る道を開き、復活のいのちを与え、神の真理を語り出す方でした。私たちも神の言葉を預言者として語るとき、人からの迫害や脅しを受けたり、孤独な場面に置かれたり、誤解されたりします。なぜならそれが預言者の運命であるからです。大衆に受け入れられる務めはしばしば神のための務めではありません。私たちは人の歓心を買うためでなく、神に仕えることを第一とすべきです(ガラテヤ1:10、1テサロニケ2:4)。

エリヤの直面した霊的堕落の環境、真の神かこの世の神のどちらに仕えるべきか、偽預言者との対決、そして霊的な敵の脅威との対決などの問題は、まさに現在において私たち自身もしばしば直面する問題です。私たちは彼の物語を通して、その診断と処方を得ることができます。またその神の人としてのあり方によって、まことのエリヤであるイエス・キリストを知ることができます。さらに黙示録に出る二人の人のうちの一人はエリヤであることは間違いないものと思われます(黙示録11:3,10)。この意味で現在も神の言葉を預かって語り出す預言者エリヤの務めは教会を通して終わりの日まで継続されているのです。


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