ル ツ

−贖われた花嫁−




1.人物像



ナオミの二人の息子の一人の妻。時は師士時代の初期。結婚前は、アブラハムの甥ロトの子モアブの子孫であり、異教徒でした。ナオミの二人の息子が死んだ後、貧困と苦境の中で、一方の妻はナオミの元を去りますが、ルツは姑ナオミに仕えることを選びます。ナオミが自由に去ってよいと言うときにも、ルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。」と答えます。またナオミのアドバイスに対して「私におっしゃることはみないたします。」と答えるのでした。元々は異郷の女でしたが、ナオミやその息子を通して真の神を知り、その信仰のゆえに姑に充実に仕え、結果として神からの祝福を得ました。彼女は異邦の女であったにもかかわらず、裕福なボアズによって買い取られて、その妻とされ、子孫にはダビデが生まれ、さらに究極的には、彼女の子孫としてイエス・キリストが誕生するのです。このことによってイエス・キリストはあらゆる民族の救い主であることが証明され、ボアズに買い取られて花嫁とされたルツは、キリストに買い取られて花嫁とされた私たち(=教会)のタイプでもあります。



2.主要なエピソードとその霊的意義



物 語

ナオミの息子の妻であったモアブの女ルツは夫に先立たれ、飢饉による苦難と貧困の中でユダの地に戻る際、姑ナオミは二人の嫁にそれぞれの故郷に帰るように言いますが、ルツだけはナオミの元にとどまりました。夫の故郷ベツレヘムに戻ったルツは、計らずもナオミの親戚である裕福な男ボアズの畑の落穂拾いをして生活を立てました。ボアスもルツに対してあわれみといつくしみを持って処遇しました。ナオミはボアズに買戻しの権利があることを知り、ボアズとルツの結婚を願って、ルツにプロポーズの仕方を助言します。ルツはその助言に忠実に従いますと、ボアズもそのことを受け入れました。ただしボアズに勝る権利を持つ人物がおりましたが、彼はその権利をボアズに譲り、正式な手続きを経て、ボアズはルツを買い取り、自分の妻として迎え入れました。彼女には子供オベデが生まれ、その子のエッサイが生まれ、その子のダビデが生まれます。そしてその子孫としてイエス・キリストが誕生するのです。


霊的意義

ルツは元々真の神から離れた異邦人の女でした。夫に死なれ、地上においては何の頼りとするところも失いますが、真の神を知る信仰のゆえに姑ナオミに忠実に仕える決心をします。「あなたの神は私の神です」(1:16)という信仰のゆえに、姑に従った彼女は祝福を得ます。私たちも元々真の神から離れた異邦人でした。ルツが裕福な男ボアズのあわれみの落穂によって生計を立てていたように、救われる以前の私たちも裕福な神のあわれみの落穂によって生きていたのです。しかしある時、私たちはイエス・キリストの尊い血潮によって買い取られ(1コリント7:23、1ペテロ1:18,19)、の奴隷から義の奴隷として、まことの夫であるキリストに嫁ぐものとされました(2コリント11:2)。サタンの誘惑により、神に委ねられた権威を失い、罪の奴隷状態に陥っていた私たちは、正当な買戻しの権利のあるキリストによって買い取られたのです。

すなわちボアスはキリストのタイプであり、キリストこそまことのボアズなのです。彼は真実であり、あわれみといつくしみに富み、愛と正義の人であり、しかも裕福な人物です。ルツはボアズに嫁ぐことにより、ボアズの富に経験的に与ることができる者とされたのです。私たちも同じです。キリストにある富を私たちの富として経験することができる者とされたのです。キリストにあって神の資産を受け継ぐ者とされたのです。ユダヤ人は神は自分たちの専属の神であると考えますが、イエス・キリストには異邦人の血が明らかに混じっているのです。このことから神の子とされる特権を得るのは肉の血筋によらないことが分かります。それはただ信仰によるのです(ヨハネ1:12,13)。



3.神の全計画における意義



ルツ記にはエステル記と同様に、神の御業が直接的には表面に記載されていない書です。しかし神の御手は人のドラマ場面場面で、その背後にあって着実に介入されており、究極的な神のご計画の実現をもたらすのです。身寄りを失った異邦人の女が、その信仰のゆえに豊かな報いを受け、その女から全人類の救い主イエス・キリストが誕生するのです。エステル記と同様に、もしモアブの地に飢饉がなかったなら、もしルツが夫を失わなかったなら、もしルツがナオミの元から去っていたならば、もしボアズが冷酷非情な男であったなら、もしボアズに優先する権利を持っていた人物がその権利を放棄しなかったら・・・・、これらの一つの要件が欠けていたならば、神のご計画は頓挫するのです。本書でも摂理の連鎖によって御業をなされる神の主権を見ることができます。

結局ルツ記には二つのキーワードがあるように思えます。一つはルツの「あなたの神は私の神です」(1:16)という告白、もう一つは彼女が落穂を拾った畑がボアズの所有地であったことは「はからずも」(2:3)であったことです。私たちの信仰と、見かけの"計らずも"の事件の背後にある神の摂理、ここに新約に生きる私たちの歩みにとっても共通する霊的祝福の秘訣があります。すべての事件は神の摂理の元で配剤された、神のご計画に実現のためのひとコマであることを信じるとき、その神の御旨の中で真の安息を得ることができるのです。「信じた者は安息に入る」(ヘブル4:3)とあるとおりです。


mbao_a03.gif