Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2007.09.02

神の国の奥義(22)


エルサレムのベトサダ(=憐れみの家)の池には無力な病人たちが集まっていました。互いに競合し合い、天使が降りた時に最初に池に入ろうとして、互いに監視し合っていたのです。しかし互いを助け合うことはできず、惨めに取り残されるだけでした。これは宗教の状況です。人と人との関わりの中で、人の言い伝えや互いの競合、そして互いの嫉妬・妬み・足の引っ張り合いを起こします。誰が一番か、誰が救われるか、そこには条件が課せられ、しかもそこの名前だけは「憐れみの家」なのです!ある意味でこれはキリストを排したキリスト教の絵でもあります。人間の言葉(言い伝え)、互いの監視、互いの競合、水平方向だけを見つめている人々の集合です。その中にあって、イエスは何故か38年間病気であった者に尋ねます、「健やかになりたいか?」と。彼は自分を救う人がいないことを告げると(自己憐憫)、イエスは言葉をかけられます。するとその言葉どおりに癒されるのです。ここでは38年間の苦労話も、男の自己憐憫に対するケアもなく、直接的な言葉を語り出します。私たちがこのようなイエスの言葉を受ける時、そこに癒しがあり、解放が起こるのです。イエスは垂直方向に人間の間に介入された方です。この垂直方向を見る必要があります。互いの関係は垂直方向に流れる言葉、いのちを受ける時、それが互いの水平方向の関係を宗教からいのちの関係へと救うのです。まことにこの業がなし得るのは、御父の業をなしている人、イエスご自身です。宗教は必ずこのような証しを嫉妬と妬みによって攻撃してきます。それはサタンは私たちの健やかさを嫉妬するからです。キリスト教の中で病んでいる人々はますますそのような霊をもって、健やかさから離れるでしょう。しかし私たち、いのちの道を歩む者は、その流れに留まり、ますます健やかさ、これが聖ですが、を味わうことができるでしょう。


<<週報メッセージアウトライン>>
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人となられた神F



■御言葉:ヨハネ5:1−18

@イエス、エルサレム(=宗教の都市)に上る→ガリラヤとの対比

Aベテスダ(「憐れみの家」の意味)の池の光景:無力で病気の人々の集合(=宗教の実情)

B宗教の”救い”:天使が降りてくる時、一番先に入った者が癒される→人同士の互いの比較(水平方向)

Cイエス、38年間病気の人に尋ねる(垂直方向)→ご自身との会話・対話をイエスは求める

D病人は助ける人がいない、みな自分より先に行くと回答→宗教の本質:宗教は手順とか教えの正しさを主張;互いの関係の中においてある条件を満たした人のみが救われると説く;自己憐憫に落ちている

E主の命令:立って歩め→自己憐憫の払拭;主の言葉があるとき癒しをもたらす

Fパリサイ人の嫉妬:安息日論争→癒すことができる人は人となられた神イエスのみ

Gイエスとの再会:罪と分離

Hパリサイ人、イエスを付け狙う→宗教の特徴は嫉妬・妬み;表の宗教の顔の裏に隠されている動機

Iイエスは安息日の主;父の権威に服すること→いのちの道

Jいのちの道のポイント:垂直方向(主との関係)と水平方向(互いの交わり)のバランス


■暗証聖句

5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」