Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2008.01.13

神の国の奥義(35)


今、イエスが栄光を受けられる時が迫りました。イエスはその最後に向かってご自身の愛を弟子たちに極みまで示されます。同時にユダの心に悪魔の思いが置かれます。まさに神と悪魔がせめぎあっている対比をヨハネ13章は見せています。しかしもちろん勝利は神の側です。その瞬間に向かっているイエスは、自らを低くし、弟子たちの足を自ら洗うのです。その心を思って見て下さい。まもなくご自分は辱めと痛みと苦しみの究極を迎えるのです。その最後の場面でイエスがしたこと。弟子たちの足を洗うこと。私たちがもしイエスによって足を洗ってもらわなければ、私たちの交わりは絶たれることでしょう。嫉妬や妬みや競争心や噂話など、これらのものが私たちの交わりを汚すのです。また私たちは世と関わっています。その中で世のちりによって汚れを受け、主との交わりが一時的に疎外されるのです。しかし主は自らを低くして私たちの足を洗ってくださる方です。ペテロはそのような主の心を理解することなく、自分だけに関心がありました。イエスのなされている事がその時は理解できなかったのです。私たちもしばしば同じです。自分の関心事で一杯になるとき、主の心が分からないのです。主の苦しみを共にする事ができないほどに私たちは鈍感なのです。チリを洗い清めていただく時、主の心に触れることができるでしょう。主とのそして互いの交わりは新鮮にされることでしょう。これによって主がI AMであること知るのです。かくして信仰とはI AMの実体化です。


<<週報メッセージアウトライン>>
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=人となられた神S=


■御言葉:ヨハネ13章1−20節

@イエスの最後の愛(アガペ):Vincentによるとアガペの愛は区別的な選択と選びによる愛を意味する→主の好みのタイプがある(例 ペテロ)
Aユダの心に入れられた悪魔の思い→心(=思い:mind)を守ることの必要性
イエスの覚悟(3-4節)→十字架の意味とその時を知っている
B足の洗い(5節)
Cペテロの心(6-9節)→ペテロの関心は主の十字架ではなく、自分だけ
D足を洗い会う意味:物理的なことではなく、互いの交わりのため 例 嫉妬・妬み・競争心・うわさ話などによって私たちの交わりは汚れる→主のへりくだりによる洗いが必要
E主のアイデンティティ(=I AM)と主を信じることの意義(19-20節)


■暗証聖句
Joh 13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、そのを残るところなく示された。
Joh 13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
Joh 13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
Joh 13:19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
Joh 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。