Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2010.04.25

十字架のことば、真理のことばに基づく交わり

十字架のことば、真理のことばに基づく霊の交わりこれまでに何度となく主の十字架が語られ、これからも語られていくことでしょうが、十字架は自己を否むという点で多くの人々に拒絶反応が生まれるのは当然です。しかし本来、いのち(ζωη)をもたらす場であり、魂に一時的に痛みが発生したとしても、そこには慰め、いやし、安息、憩い、平安があります。僕が直接参加していない最近の交わりについて伝え聞いたことで危惧していることがあります。主にある兄弟姉妹であるはずの人たちで十字架を語りはじめると、怒りと痛みを伴う拒絶反応を示す人がいるということです。-思い当たることは1980年代から90年代前半にかけてですが変質した十字架(宗教的になってしまっている)のことばにどっぷり浸っている光景をまのあたりにしたことがあります。何か罪を犯した、失敗したことをその度ごとにオリジナルな十字架(ま新しく、複数)をセレモニー的に課しているのです。課されている本人は自分の十字架を負っているのではなく、負わされちゃったのです。怒りと痛みだけが増し加わっていく十字架であり、それは主の十字架ではなく、まさに左側の十字架に着けられた人の体験ではないですか。--「あなたはキリストではないか。自分たちを救え。」キリストが一度罪のために死なれたことは一度だけの十字架であり、私がキリストと共に十字架につけられたことは唯一、同一(単数)の十字架であり、私とキリストが共有している十字架です。このことは主が成して下さり、すでに終わっているのです。ただ十字架から流れ出た血の注ぎと、打たれた傷の効力は今もって現在進行形です。だからこそ贖われた霊どうしの交わりが可能であり、贖われた霊(キリストという礼服を着せられた霊=真理の霊と一つになった霊)による礼拝が可能です。


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参照聖句:ルカ 9:23-24、14:27、1ペテロ3:18、ガラテヤ2:20、2:14、イザヤ53:5。