米国テロに思う

−神の主権と人間の立場−




■本稿はリバイバル新聞2001.11.18号『意見・提言』掲載原稿です。

このような悲劇が起こるとき、クリスチャンの間でも原因の分析とか米国の対応、さらには世界平和の実現などについて喧喧諤諤の論議が起こる。いわく互いの宗教を認め合い、赦し愛し合い・・・、特に「テロリストに花束を」には偽善もかくまで極まれりと唖然とした。これらの論調のほとんどは聖書の御言葉を無視した人間中心主義(ヒューマニズム)に過ぎない。むしろ聖書はさらなる悲劇と荒廃を予言している。

不条理に直面して

私たちはしばしば訴える:「神がいるならばなぜこのような悲劇を許されるのか。神は不正だ」と。しかしパウロは言う:

人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

これが神の主権である。私たち造られた者は、造った者に対して何を訴えることができるであろうか。これは神の主権に徹底して服した神視点からの言葉である。ところがしばしばクリスチャンであっても、前者の視点から神を告発するのである。

十字架の意義

最近流行の言葉に「あなたはわたしの目に高価で尊い」がある。イザヤ書の言葉であるが、"イスラエルの贖い"の文脈から切り離すならばとんでもない人間中心主義に陥り、キリストの十字架を無効とすることになる。なぜ神は私たちを愛して下さるのか、なぜ罪を犯した人間を救われたのか、それは神が愛であり、義であるからに他ならない。私たちが高価で尊いからではない。私たちの属性や功績に一切よらないのである。

キリストの十字架は第一義的に神の愛と義を証しする。もし神が十字架を用意されなかったら神の愛が損なわれ、もしキリストが裁かれなかったら神の義が損なわれたからである。それはまず神の証と必要のためであったことを知るべきである。ここを外すならば福音はいのちを失う。

神の主権に服する

私たちはなぜ諸々の悪の存在を神は許されるのか詮索することがある。しかしその態度すら実は不遜であることを知るべきである。私たちの言葉は、ただ「神は主権者にして、愛であり義であることを知っている」であるべきである。それらの悪はすべてサタンと人の罪のゆえであって、神の責任ではない。それ以上の詮索はむしろ人間の分をわきまえない、否、神の主権を侵すリスクがある。私たちが取る態度は、神を知らない世の人とは一線を画したものであるべきである。

このような事件に遭遇するときこそ、私たちの信仰の本質が暴露される。私たちはただ神が用意された唯一の救いの道を大胆に語るべきある。十字架である。この十字架におけるキリストと共なる"私の死と復活"こそが、私たちを真に神の御前に価値ある者とするのである。神は肉を決して受け入れることはない。神が求めるのは酵母で膨らんだパンではなく、純粋な小麦粉だけの種無しパンである。"私の死"をバイパスしたものはすべてコスプレまたはフェイク(偽り)である。


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