ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第8回

真理のうちに歩むB

−処方箋−




三、各兆候への処方箋

これらの兆候は本質的に肥大した魂からこみ上げるエネルギーによります。このエネルギーが肉を煽り、ある人々は肉の衝動を制御し得ないのです。私たちの魂のエネルギーは自己に集中し、その動機は自己保存と自己主張です。世の人の営みの動機はすべてここにあります。クリスチャンは十字架においてアダムにある古い私は終わらされましたが、魂に残るエネルギーの処理は私たちの信仰によります。客観的な死を主観的に適用すること、あるいは"私の十字架"の適用がなされること、これがこのレイヤー(層)では問われます。

"私の死"は御霊が実体化(経験化)します。御霊は二千年前の事実を現在のインナー(内的)リアリティとして下さるのです。永遠に完成された真理が信仰によって自分の経験になるのです(ヘブル十一・1)。同時に鋭い御言葉のメスによる魂と霊の分離手術を経ると(ヘブル四・12)、魂の状態によらず霊は御座の前で安らぎ、絶えざる神の御臨在を楽しむようになります。つねに主ご自身を味わい楽しむことができるのです。

(1)兆候一には自己から手を離すこと

アダムの罪の結果は自意識(裸)に目覚めたことです。以来人の生は自己がすべてとなりました。自己の生存、自己の尊厳、自己の満足、自己の業績がアイデンティティの中核となりました。主は言われます、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂(原語)を失う者は、それを救うのです。」(ルカ九・23,24など)。この"自己否定"とは何かを我慢することではなく、注意のポイントが自分から離れて別の対象(キリスト御自身)に向かうことを意味します。油塗られたワーシップに身心を任せ、我を忘れて賛美することの霊精神身体医学的意義はここにあります。没我の状態です。神は自ら救わない者を救うのです。

また「エゴイズムからの解放」といった道徳的価値観を持ち込んではなりません。「自我が砕かれる」なるもっともらしい表現があり、何か霊的な響きがありますが、"自我"の定義によくよく注意すべきです。多くの人が"自我に死のう"として葛藤しています。その意味で「自分の十字架を負う」ことの真の意味と経験が回復される必要があります。私たちの注意が自己から離れキリストに向かうとき、ただちに御霊によってキリストの甘い愛が心に満ちます。平安と安息が心の奥底にまで満ち溢れ、深い安堵感を覚えます。主が約束して下さった魂の安息です(マタイ十一・29)。信じた者は自分の業をやめて安息します(ヘブル四・10)。自己を否むならば、完全なる安息に入ります。真に自己を諦め、自己から手を離し、自己を忘れることは解放です。魂を神に委ねましょう。

(2)兆候二にはいのちの光と愛(ルビ:アガペ)

アダムは自意識に目覚めた後、自分の恥部を葉っぱで覆いました。人の生は自己の真実を他人から、また自分からさえも隠す営みと言えます。人は自分の真実に触れられることを裂けようとします。心の葛藤から解放を願う人ですら、真実に触れられると様々な反応によって取り繕いをします。これを"抵抗"と言います。これが教会においてもほとんどの問題の原因です。

人間の抱える葛藤や問題の九十%は対人関係におけるものです。人から傷つけられ、人に拒否され、人に侮られ・・・という情緒的な経験によって、その時に抑圧された感情に観念が結合し、さらに怒り、妬み、恨み、憐憫などの霊が複合して霊感情観念複合体として私たちの肉の内に蓄積されています。心の病あるいは葛藤はこのエネルギーの噴出を抑えようとする取り繕いそのものとさえ言えます。加えて「アイしなさい」という教科書的教えが葛藤をさらに深刻にします。

まず注意すべき点は、自己内省によっては決して真実を知り得ません。内側を探れば探るほど、私たちの心は取り繕いに陥ります(エレミヤ十七・9)。自分の真実を真に知るのは御霊がもたらすいのちの光によります。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇三十六・9)。この光が私たちの霊のうちに光るとき、霊は一瞬にして真実を見ます。霊は人の心の奥底を探り極めます(第一コリント二・11,14)。そのためには御霊に頼り、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈りましょう(詩篇百三十九・24)。

次に御霊によって注がれる神の愛(ルビ:アガペ)が迫るとき自分の真実を何も隠す必要のないことが分かります。完全な愛は恐れを取り除きます(第一ヨハネ四・18)。真に神の愛に触れて満たされるならば、強迫神経症的に「アイ、アイ、アイ」とは言わなくなります。私はこれを"ラヴ・オブセッション"と呼んでいます。真に神の愛(ルビ:アガペ)に触れれば直ちに満足し、ただその愛に留まることだけを求めるようになります。葛藤している人に、表面的に「相手を愛しなさい、赦しなさい」と語ることは、かえって追い詰めます。真に神の愛に触れていれば、そのような教科書的アドヴァイスを提供するのではなく、むしろその痛みを共有することができます。

なぜなら生来の私たちには愛(ルビ:アガペ)はないのです。このことを知れば解放です。"愛するもがき"は不要なのです。私たちは真のぶどうの木から離れては何もできないのです(ヨハネ十五・5)。ただ木の内に住めば(原意)良いのです(同4節)。真の愛は幹から循環する樹液に含まれる神の愛の余剰(溢れた愛)によるのです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とあるとおりです(第一ヨハネ四・19)。その愛は魂の愛ではなく神を源とする霊的な愛です。しかもこの愛は感情をも潤し、赦せない相手も自然と赦せ、心を圧迫していた霊感情観念複合体も融かし、心の傷も自然と癒します。この時、観察する自己と観察される自己に分裂していた心はひとつになり、自己疎外感(自己罪責感)から解放されます。

(3)兆候三には真理による思いの再構成

アダム以来、人は自分の生を担保し、自分を喜ばせるために様々の価値観・思想・方法を自分で築き上げました(創世記四・20-22)。いわゆる文化です。文化とは神から分離された人類が自らに奉仕するための手段と言えます。文化は神の代用品となりました。

しばしばクリスチャンになって後も、それまでの人生で刷り込まれた価値感や手練手管を捨て去ることが難しいのです。それらを捨て去って生きていけるのかと思えるのです。さらにその価値観や手練手管の上にプライドすら建て上げ、自己のアイデンティティの根拠としています。このような場合、その部分に触れるならばたちまち情緒的な反応が起きます。この世では互いのそのような部分に触れることを巧妙に避けて通ることが成長した"大人"の印と見られています。特に日本人の場合はこの領域が弱点であって、御霊と真理が脇に追いやられ、交わりの場が一定のプロトコル(儀礼)に従った社交サロンと化すのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思い(原語)の一新によって自分を変えなさい」(ローマ十二・2)とあるとおり、御言葉の真理によって古い価値観や手練手管をキリストにある新しい価値観と生き方と置き換える必要があります。得るためには捨てる必要があるのです(ルカ十七・33)。私たちの生はキリスト(ピリピ一・21)、人生を導き支えるのもキリスト(ピリピ一・6)、人生の目標もキリスト(ピリピ三・13)、すべてはキリストに魅せられ、キリストに捕えられ、キリストに向かっての前進です(ピリピ三・7,8,14)。

再び神の主権と御言葉の権威に服することとの大切さを確認します。真に神に服し、自己を放棄し、自己を救おうとしない地点に導かれるならば、深い安息と平安とが満ち、解放感と伸びやかないのちの感覚を楽しむことができるでしょう。これこそ私たちがキリストにあって得た豊かな霊的な緑の牧場の生活なのです。ただキリストによって満ち足り飽き足りること、これこそが健全なクリスチャン生活の徴候です。ホーリネス(Holiness )とは体・魂・霊全体の健やかさ(Wholeness )を意味します。