Q2.「私」と「内住の罪」について 




丁寧なご返事、誠にありがとうございました。さらに、「私」と「内住の罪」について質問があります。

1.「私」に関してですが、「私」は救われる前も後も存在(定義された位置)においては変わることなく、「私」の中にいた「古き人」が十字架によって殺されたものの「私」自身は依然として存在している、と考えるべきでしょうか。古き人が十字架にかけられた、と言われるとそれまでの「私」が十字架にかけられたと理解しがちです。しかし、「私」は今も生きている。「私」と「古き人」の位置関係についてご意見をお聞かせ下さい。

2.「内住の罪」についてですが、これはどのように定義されるのですか。また「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)の聖句は、「肉と戦わずに内住の罪と戦う」ということでしょうか。


 A2. Dr.Lukeによる回答 



ひじょうに本質的な問題のご指摘です。確かにこのあたりの論点があいまいなために、クリスチャンになった後、"HOW TO LIVE"を見失ってしまう方が多いように思います。ある人は伝道、伝道、ある人は聖め、聖め、ある人は聖書の学び、学び、ある人は訓練、訓練・・・と何かに強迫神経症的になったりする場合が多いです。

1.「私」を客観的に言語によって定義することは困難です。哲学でも心理学でも医学でも「私」を言語で定義し得たことはありません。ただ次のことは言えます。クリスチャンになった後も、自分は昔のままの自分であって、記憶も意識も何も変わっていないと感じられるのですが、それは大脳の"記憶あるいは意識の連続性"における「私」であって、そのレベルでの「私」のアイデンティティは過去からずっと継続しています。

「古き人」が十字架につけられた、あるいは「キリストと共なる死」という場合、記憶や意識の断絶あるいは消失を意味するのではありません。「私」の記憶・意識はあり続けます。「生きているのはもはや私ではない。キリストがわたしのうちで生きている」とパウロは言いますが、同時に「いま肉にあって生きているわたしはキリストに対する信仰によって生きている」と言います(ガラテヤ2:20)。機械的に私の記憶・意識が消滅してキリストに置き換わるわけではありません。

「私」の意識はあくまでも継続しますし、意志も、思考も、感情も継続しますが、その中で生きている「本質」(うまい言葉が思いつきませんが)、あるいは「命の実体」とも言うべきものが変わっているのです。具体的には機能停止していた霊が再生されること、その霊のうちにキリストのパースンが聖霊によって宿ること、そのキリストのパースンの生き方のパタンが私たちの魂のうちで追体験され、かつ再構成されること、と言えるでしょうか。

かつては自分由来の魂的エネルギーによって思い・意志・感情を用い、それを体を通して行為化して生きてきたのが、その魂レベルのエネルギーから、霊の中にあるいのちのエネルギーに切り替えることとも言えるでしょうか。人は知恵の木の実を食べた後、霊の機能停止を魂の肥大化によっておぎなったわけです。ある人は知性で、ある人は感情で、ある人は意志の力で生きる、あるいはその混合によって生きているわけですが、みな魂のエネルギーに依存しているわけです。そのエネルギーのソースが魂から霊に切り替わるわけです。これがイエスの言う御霊がもたらす「いのちの水」です。

こういうわけで、ひとそれぞれの個性が抹消されたり、没我的無意識に陥るのでもありません。パウロの書簡はパウロらしく、ヨハネの文書はヨハネらしいです。「私」は継続していますし、意識もありますが、しかしその「私」は主役をおりて、霊のうちのキリストが主役になって下さるのです。こういうと何か二重人格的に思えますが、「私」の意識や人格が消滅してキリストのそれと交代するわけではありません。これは危険な思想です。キリストは「私」の意志を犯されませんから、「私」の意志の同意の範囲で、聖霊によってご自身を私たちの魂の領域においても現して下さるのです。御霊の第一の機能は、金歯や金粉の奇跡をすることではなく(あってもおかしくはありませんが)、イエスの言葉とわざとパースンを私たちの内で証しすること、あるいは実体化することです(ヨハネ16章)。

2.「内住の罪」も客観的に定義するのは困難です。ウイットネス・リーなどは「内住の罪=サタン」として、(贖われていても)私たちの体にはサタンが住んでいるなどの恐ろしい解釈をしています。確かにパウロは経験的に「私の肢体には罪が住んでいる」と罪を擬人化して表現しています(ロマ7章)。これは罪へのそそのかしをするこの存在が彼の内できわめてリアルであったからでしょう。またよくこの単数形の罪を「罪の性質」として説明されていますが、これも聖書的ではありません。なぜなら「私には罪の性質がある」というときには、私自身にその本質が帰されるからです。しかしパウロは罪を犯しているのは「私ではない」と言っており、また「一人の違反によって全人類に罪が入った(ローマ5:12)と言っております(注:「罪の性質を帯びた」ではない)。つまりこの罪は外来性の何かなのです。

ロマ書の前半では罪々(sins)を取り扱います。これは私たちを通してなされた行為としての罪々であって、複数形です。これらは血によって洗い流されます。ロマ7章は罪(Sin)であって、パウロの擬人化する、行為としての罪々のルーツであって単数形です。これはキリストと共なる古い私の死によって解決されます。この単数形の罪は依然として存在しても、「私」の方がこの罪に対して死んでしまったので、この罪から解放されているのです(ロマ6:7)。この単数形の罪(Sin)を言語で定義づけることは困難ですが、経験的に私たちの内には罪々(sins)にいざなうそのような力・傾向・存在があることを知ります。

しかしキリストと共なる死を知るとき、その力が「キリストに対する信仰によって生きる私」に届かない経験もします。罪のいざないに、以前は容易に反応してしまったのに、今は反応しない自分を見出すことができます。がまんしているのでもなく、意志の力で頑張るのでもなく、反応しないのです。こうして体は罪との関係において「無力・無効・失業」状態になります(ロマ6:6)。「現在の私」は罪のいざないに反応しないので、罪は体を使うことができないわけです。もちろん「私」が意志を用いてあえて罪を犯すこともできます。しかしそれまでは当たり前のことであったのが、現在はその罪を犯すことがむしろおっくうに感じられるのです。もっと経験に言いますと、深い平安と安息にあるとき、罪を犯すことがひじょうに困難であると感じられます。

キリストは罪深い肉と同じような形で来られて、神はその肉において罪(Sin)を処罰されました(ロマ8:3)。また神は罪を知らない方を罪とされました、それは私たちが、この方にあって、神の義となるためでした(2コリ5:21)。この罪はみなSinです。sinsのルーツとしてのSinを神はイエスの肉体において処罰し、罪を知らない方を罪とされ、私たちを義として下さったのです。ただしこれは罪を存在論的に消滅されたのではありません。

というわけで、「十字架における死」と言う時、何か存在論的に抹殺し、無感覚・無意識になるというよりは、「いのちのエネルギーの種類の置き換え」とか「関係の断絶」と言った方が良いと思います。私たちは、罪に対して死にました(ロマ6:7)、律法に対しても死にました(ロマ7:6)、またこの世に対しても十字架につけられ、この世も私たちに対して十字架に付けられています(ガラテヤ6:14)。

私たちの新しいアイデンティティは内に生きるキリストであり、魂に頼って生きていた「私」は十字架につけられて主役を降り、キリストへの信仰によって生きるという脇役となり、十字架によって罪と律法とこの世に対する関係を切られた存在とされているわけです。

なお、ヘブル12:4の場合は、この「内住の罪(Sin)」ではなく、文脈から見て、いわゆる神に敵対する人々による諸々の悪(神への冒涜、迫害、中傷などなど)を意味しているように思います。Sinとは戦うのではなく、十字架による死によって平安と安息の内にあって、そのいざないに対してむしろ無反応にされるのです。




まとめ



1.イエスの血潮は諸々の罪(sins)を処理しますが、罪(Sin)は残ります。パウロが擬人化して「内に住んでいる」と言う罪です(ロマ7:20)。神はこの罪(Sin)は残されたまま、私たちの「古い人」をキリストと共に十字架につけることにより、私たちの意志の同意がない限り、罪が体を用いることができなくしました。ここで自由意志が大切になるわけです。この意味で体は罪に対して「無効、失業」状態とされたわけです(ロマ6:6)。このことを信じるとき、罪の死の法則から解かれて、いのちの御霊の法則に乗ることができるわけです。

2.また「肉」は、一面において私たちが情と欲と共に十字架につけました(ガラ5:24)。つまり「古い人」と「肉」も異なります。「古い人」はアダムにあって誕生した神から独立して生きていた「私」であり、体のうちで働く罪に翻弄されるままに、生きてきたその生き方の価値観や行動パタンが大脳や中枢神経系に条件付けされたのが「肉」です。「罪(Sin)」と「古い人(Old Man)」と「肉(flesh)」と「体(body)」の関係を正確に理解しないことから多くのクリスチャンが不要な葛藤に落ち込んでいるわけです。

3.では罪(Sin)とは一体何なのか? これはよく質問されるのですが、聖書が黙しているのですから、罪は罪でとどめて置くべきであると思います。経験的にそのような私たちの肉を刺激する内なる力があることを知りますし、律法によってますます力を得る存在であることも分かります(ロマ7:9、13)。パウロもここで「知っている」という単語は「oida(主観的に知る)」を用いております。この実体が何なのか、現在の私達にはわかりません。「肉」を「罪の性質」と言い換えてみたり、「罪はサタンである」などの解釈がしばしば異端の芽になります。聖書の言葉は頭で分かり易く解釈を加えたりせずに、そのままに使うべきであると言うのが私の結論です。

4.次に魂(soul)と肉(flesh)の関係です。もともと魂自体には罪的な要素はありません。しかしその魂が肥大化し、罪(Sin)によってそそのかされて、体の嗜好を神から独立して満たすときに罪(sins)を犯します。幕屋の聖所は聖なる場所ですが、しばしば外庭に容易に出てしまいます。そこで主は魂を否みなさい(マタイ16:24,25)と言われました。これは魂の機能である思い・意志・感情を機能させないことを意味するのではなく(それでは生きていけません)、その機能を神から独立させて、魂由来のエネルギーで駆動することを止めよ、と言う意味です。その各機能を御霊に依存させて、御霊のエネルギーで機能させることです(ガラ5:16)。

5.この時、御霊が肉の機能を停止させます。ガラ5:17では、肉と御霊が争い、「そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」とあり、通常ロマ7章の「したい善をせず、したくない悪を行なっている」葛藤と同じと見られていますが、これは誤解です。ガラ5:17は、Darby訳を見ますと「that you should not do those things which you desire.」となっています。つまり直訳しますと、肉と御霊が争うが、「それはあなたがたが願うことをしなくなるためである」となります。ロマ書の葛藤は3つのlaws(神の律法、思いの法則、罪の法則)の間の葛藤ですが、ガラテヤでは、御霊と肉の葛藤であり、それは御霊が肉を押さえて、私たちが生まれつきしたいこと(=魂の嗜好)をしなくなるようにしてくださることを言っているわけです。つまりここの肉は主に魂的要素に触れています。

6.つまり、肉(flesh)には二つの要素があります:一つは内住の罪(Sin)が住む肉体的側面(大脳中枢神経系に焼き込まれた思考行動パタン)、一つは神から独立して生きることを欲する魂(soul)=私、です。前者に対してガラテヤ5:24がすでに十字架につけたと宣言し、後者には日々十字架を負って魂を否めという主の勧め、およびガラテヤ5:17があるわけです。魂が御霊から独立して活動することがないようにする必要があるわけです。

moji_b02.gif