聖書が究極的に語ること―神のエコノミー



Keyword:神と人が共に住む(黙示録21:3)


聖書は2000年にわたって数十人の様々な階層の人々によって書かれましたが、彼らはみな聖霊の霊感を受けており、したがって神の一貫したご計画を見ることができます。神の御旨は単に罪を犯した哀れな人類を贖うに留まらず、アダムが取り損なった神の永遠の命を私たちの内に御霊によって吹き込むことにより、新しい創造の初穂を生み出し、その人々の中に神が住まわれるという壮大なご計画なのです。

創世記において、アダムとエバに対して、神は命の木と善悪を知る知識の木を備えましたが、もちろん神は命の木をとって欲しかったのです。しかし彼らは後者を選択し、それ以後命への道が封鎖され、呪いが入りましたが、時至りイエス・キリストがご自身の体を裂き、その血によって永遠の命への道を開いて下さったのです。イエスの贖いは、単に罪の赦しに留まらず、命への道を開いたことをもっとはっきりと見る必要があります。

今や私たちは単に罪赦された罪人であるだけでなく、今や新しい創造とされた神の住まいとされた存在なのです(注)創世記のアダムとエバに対する神の御旨は、黙示録において完成しますが、その究極が神の住まいであり、小羊の花嫁として整えられた新エルサレムです。そこにはもはや呪いはなく、永遠の命の木に豊かな実が実り、都全体が神の臨在によって輝けるものとされています。神の御旨は私たちが想像している以上に、はるかに素晴らしいものであるのです。

旧約時代における幕屋や神殿の至聖所は縦・横・高さが等しい立方体でした。しかし構造物の最も奥深くにあり、年に一度大祭司のみが入ることのできた場所でした。そこは物理的には暗い所でしたが、神のシェキナの栄光が臨在されるとき、その栄光で輝いたのです。

新約時代においては、神は至聖所である私たちの霊に御臨在されます。そしてキリストの体の肢体としてのエクレシアにその栄光がとどまります。私たちはイエスの開かれた命の道によって至聖所にダイレクトに入ることができます。その臨在に満たされるとき、私たちは会見の幕屋を出たモーセのように神の輝きを帯びます(2コリント3章)。エクレシアを通して神の栄光は目に見える形でこの世に証しされます。

そして永遠に至ると、立方体である新エルサレムにおいて神の栄光が輝くのです。つまり最も深くにあった至聖所が、今や顕に見える形になります。そこにはもはや太陽も月もなく、神殿もありません。なぜなら都全体が神の御臨在の場であるからです(黙示21章)。もっとも奥義的な神の臨在が明らかな栄光にあって輝いています。キリストの花嫁としてのエクレシアが究極的に完成された姿です。神は私たちをご自身の御住まいとして建て上げて下さるのです!
(注)ある人々は、「神と人が混ざり合って、究極的に人が神化し、神-人になる」と主張しておりますが、これは聖書の啓示ではありません。御言葉は明確に同質の霊を共有して「神と人が共に住む」と語っております。

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1.創世記:創造の意図

(1)アダムの創造(創世記2:7)

 ・体:物質的存在(幕屋・神殿の外庭に相当)⇔ 物理的・体性的感覚の座
 ・魂:非物質的存在(幕屋・神殿の聖所に相当)⇔ 自己意識の座
 ・霊:霊的存在(幕屋・神殿の至聖所に相当)⇔ 神意識の座


(2)キーワード:人が一人でいるのはよくない(創2:18)

 ・エバの誕生:アダムが眠らされている間に彼の脇腹の傷からの骨による=アダムの要素を得ている

(3)罪の結果

 ・霊の死と命からの隔絶(創世記3:23,24)
 ・呪い(創世記3:14−19)


(4)御臨在の場

 ・旧約では神は幕屋神殿に臨在された(@至聖所)


2.現在:エクレシア時代

(1)エクレシアの意義

 ・アダムとエバの結婚=キリストとエクレシアの象徴(エペソ5:31,32)
 ・キリスト=最後のアダム i.e. 旧創造の終結(2コリ5:17)
      =第2の人 i.e. 新創造の初穂(1コリ15:20)

 ・エクレシアの誕生:キリストが眠らせている間に、彼の脇腹の傷からの水と血による(ヨハネ19:34;1ヨハネ5:6)
 ・神の霊を与えられている(1ヨハネ4:13)
=最後のアダムであり第2の人の要素を得ている新しい種族(genos);ニュークリーチャー

(2)神の御旨

 ・霊に住まわれるいのちを私たちに与えること(ヨハネ10:10)
         ⇒キリストとの同形化(ロマ8:28;2コリ3:17,18;ガラテヤ4:19)
         ⇒エバがアダムの骨の骨、肉の肉であるようにエクレシアはキリストの骨の骨、肉の肉

(注)ある人たちはここの同形化について「イエスが神と人の混ざり合った存在であるので、私たちも神と混ざり合って神化し、神-人になることである」と言いますが、これは異端の教えです。神-人はイエスにおいてユニークであり、私たちは神の言(ロゴス)が肉体を取られて人となられた、その人なるイエスと同形化されるのです。

(3)贖いの結果

 ・罪の赦しと呪いの排除(ガラテヤ3:13)
 ・
命への道を開く(ヨハネ6章、10:9;11:25;14:6;へブル10:20)

(4)御臨在の場

 ・新約では神は、個々の人の霊(=至聖所)に内住され、さらにキリストの体であるエクレシアに御臨在される。すなわち新約では神は受肉されたキリストの肉において現れた。さらにキリストはいのちを与える霊となられ(1コリント15:45)、個々の人の霊から魂、そして肉体を通して表現される。肉において現れる神、これが敬虔の奥義(1テモテ3:16)。

(注)ギリシャ語の"eusebeia"は敬虔とか信心と訳されておりますが、一般の日常語として理解してはなりません。御言葉は御言葉で定義すること。


3.永遠:新天新地での新エルサレム

(1)新エルサレム=エクレシアの究極の姿

 ・勝利を得る者には新エルサレムの名を与える(黙示録3:12,13)
  ⇒小羊の婚姻(黙示録19:7)⇒花嫁・新エルサレムが下る(黙示録21:1―4)


(2)御臨在の場

 ・新エルサレムには神殿はない。新エルサレム自体が至聖所=神と人が共に住む(黙示21:3)
 ・呪いはなく、命の木に12種の実が豊かになる(創世記22章)=創世記の裏返し

(C)唐沢治

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