恵みと律法について


  • 律法モーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した(ヨハネ1:17)。

  • あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです(ローマ6:14)。

神は御自身の創造の最高傑作である人間と関係(交わり)を持つことを願われます。しかも神は無秩序の神ではなく、自然界は秩序だった美しい自然界の法則で支配されているように、御自身と人間との関係もある契約にしたがって成立されます。すなわち聖書で言う契約とは、一言で定義すると、「神と人の関係のあり方」のことです。すでに述べましたように、この契約には2種類のものがあります。「旧契約」と「新契約」です。この図はモーセ律法を現代においても適用すべしとする再建主義の理解とDr.Lukeの理解をまとめたものです。

旧契約においては、モーセを通して与えられた律法を中心として神と人の関係は規定されます。簡単に述べるならば、律法とは「神と人に対する人のあり方と生き方のモデル」を提示するものであり、それ自体は神の聖に基づいて神の義の基準を提示し、本質的に聖なるものです(ローマ7:12)。モーセに対して神が与えられたいわゆる「十戒」の前半の4戒は、人の神との関係のあり方を規定し、後半の6戒は人と人の関係のあり方を規定しています。その根底にある神の基準は「わたしが聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」(レビ11:45)ということに尽きます。

この神の聖性は神の諸属性の本質であり、神の義、愛、憐れみ、慈しみ、柔和、寛容・・・などの諸属性はすべてこの神の聖性に基づくものです。神は律法においてその聖性を規定され、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るのなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と宣言され、そのあり方を人間に対して求めたのでした(出エジプト19:5,6)。

しかしながら、ここで神は彼らが律法を完全に守り得ることは不可能であると知っておられました。これに対してイスラエルの民は、「のおおせられたことはみな行います」(出エジプト24章)と宣言し、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げ、神と彼らの間の契約は成立しました。彼らは「みな行います」と高らかに宣言し得るほどに、自分自身について無知であったのです。このため彼らは自分の不真実さや不忠実さが暴露されるために、それから長くて過酷な試練の年月を経る必要がありました。パウロは告白します:

  • 律法によらないでは私は罪を知ることがなかったでしょう・・・私はかつては律法なしに生きていましたが、戒めが来た時に、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導く者である事が分かりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって極度に罪深いものとなりました(ローマ7:7-13)。

  • 律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることができるのであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人に与えられるためです。信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした(ガラテヤ3:21-23)。

律法は人類が罪の促しによって滅びるのを防止するため、養育係としてそのうちに守ったのです。この意味で神の愛のご配慮(恵み)です。しかし、それは私たちの内なる罪の存在を暴き、私たちが戒めを守ろうとすればするほど、むしろ罪の深みにはまるという罪の奴隷状態にあることを、私たちが知るに至り(→この精神病理については「罪とは?」参照)、ついには救い主の必要性を認めるに至るために、神が仕組まれたものだったのです(ガラテヤ3:19)。この意味で旧契約は不完全であり、いのちを与えることができないものでした(ガラテヤ3:21)。旧約聖書においては、律法を守ろうとするイスラエルの民の繰り返される失敗の様が何度も何度も提示されています。それは絶望的なあがきでした。人は律法によっては決してとされることがないのです(ガラテヤ2:16)。

時至り、神は御子イエスを地上に遣わして下さいました。イエスが提供された契約は新契約であり、それは恵みによって神と人が関わりを持つことです。恵みとは、本来それに値し得ない存在である私たちが、神の一方的ないさおしによって、神から様々なものをいただくことができることです。もちろん恵みは旧約時代にも働いております(⇒「旧約の救いと新約の救い」)。新約は恵みが実体化された契約と言えます。しかしそのためには御子イエスにとっては、律法を完全に守り、かつ十字架という過酷な過程を経る必要がありました。

神は無秩序の神ではありませんから、律法をないがしろにはできず、また律法を守り得ない人に何らかの処置をする必要があったのです。このためにイエスは御自身は何らの罪のない存在であったにも関わらず、罪人である私たちと同一視されることによって、十字架で裁きを受けて下さったわけです。私たちは信仰がありさえすればその事実に直ちに与ることができ、神との愛の関係をもつことができますが、イエスにとっては御自身の血を流し、肉体を裂くというそれは大きな代価を払うことであったのです。

  • 前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが―律法は何事もまっとうしなかったのです−他方でさらにすぐれた希望が導き入れられました。わたしたちはこれによって神に近づくのです(ヘブル7:18,19)。

  • 信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちのための養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためです(ガラテヤ3:23-24)。

  • しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは、彼がさらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が・・・わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(ヘブル8:7-10)。

そして現在、信じる私たちと律法の関係は、私たちと罪との関係と同様に、私たちは律法に対して死んでいるため、律法から解放されたのです:

  • しかし今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字によらず、新しい御霊によって仕えているのです(ローマ7:6)。

律法を守れない者は死をもって代価を払うべきなのですが、私たちはキリストと共にすでに十字架で死んだのです(ローマ6:6)。つまり私たちは死によってすでに代価を払ったのです。この"私の死"を真に知ることは解放です!内住の罪からの解放と律法からの解放は共にイエスと共なる十字架における死によります(→「罪とは?」参照)。そして今や復活のイエスと同一視されて、新しいいのちを御霊によって生きるのです。そのためにキリストは律法を終わらせ(ローマ10:4)、さらにまさるいのちの御霊の法則を導入してくださったのです(ローマ8:2)。この時に祭司制度も変更されました(ヘブル7章)。

  • あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです(ローマ7:4)。

これはすべて恵みによります(エペソ2:8)。一言で言って、恵みとは、私たちがイエスの死と復活に同一視されることにより、私たちの負っている負の資産とイエスの所有される正の資産(富)を交換することと定義できます。そのために私たちの側に要求されるものはただ信仰だけです。信仰によって、イエスが成し遂げてくださった新契約の効力が、私たちにも適用されるのです。新契約においては、あらゆる神との関係はすべて信仰によって、神の恵みに基づいて成立されます。その新契約はイエスの血によって締結され、批准されたのです。まとめますと:

律法は神の聖の本質を
モーセにあって提示するだけです

恵みは神の聖の本質をイエス
あって提供します

律法は私達に行い
要求します

恵みは私達に信仰
要求します

律法は私達が神のため 何かする
ことを要求します

恵みは神が私達のため 何かして
下さる
ことを意味します

律法は私達が独力で神の基準に
達することを要求します

恵み聖霊が私達の内で神の基準を
生きさせて下さいます

旧約は双務契約でした。つまり人が神の律法を遵守すれば、神の祝福を得るという形です。しかし新約は、律法を守れない人の弱さを知っておられる神ご自身が自ら人になり、神と人の両当事者側の契約事項を神-人であるイエスにあって果たして下さったのです。つまり新約は片務契約です。私たちはその法的効果を信仰によって得ます。さらに旧約の致命的な欠陥は、神の基準を生きることのできるいのちを与えることがないことです(ガラテヤ3:21)。新約は神の基準を生きることのできるいのちを与えるのです(ローマ8:2、1コリント15:45)。

今や古くて不完全な、死をもたらす契約は過ぎ去り、イエスにあって新しくて完全な、いのちをもたらす契約 が到来しているのです。私たちがそれをただ信じる時―信仰によって応答する時―ハレルヤ、ただちにその契約の中に入ることができるのです。信じることこそ神のわざです(ヨハネ6:29)。何と言う特権でしょう!


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