新約の預言について

これは旧約と新約の違いの本質に関わる論点です。特に御霊と人との関わりの違いが関係してきます。結論を述べますと、旧約の預言と新約の預言は異なります(⇒預言の霊的機序」)。なぜなら旧約と新約では神の霊と人の関係のあり方が本質的に変わっているからです。したがって神の言葉の語られ方も異なります。参考書としてはT.Austin Sparks, Prophetic Ministries, Destiny Imge Inc. とWatchman Nee, The Ministry of God's Word, CFP を挙げておきます。

神は昔は預言者たちを通して部分部分に分けて語ったが、現在は御子によって語った(ヘブル1:1,2)。すでに語っているのです! 旧約の預言は神が書いた完成されていた一枚の絵(神のご計画)をジグソーパズルのようにバラバラにして預言者に分け与えたのです。ある人は沢山のピースを、ある人は少なく、またある人は重要部分のピースを、ある人はそれほどでもない部分を、といった感じです。聖書の預言を再構成すると整合性がある理由は、すでに書かれているものをばらしたからです(イザヤ34:16には御言葉にはそれぞれ「連れ合い」があるとあります!ジグソーパズルです)。神のわざは天地創世以来すでに完成しています(ヘブル4:3)。そしてそれらはすべてイエスを証ししています(ルカ24:44)

時至り、神(YHWH)の第二格ロゴスはイエスとして人間となり、神性と人性をイエスにあって結合されました(二世一人格論)。イエスこそ影である旧約の実体・本体です(コロサイ2:17、ヘブル8:5、10:1)。旧約で与えられたピースのひとつひとつはキリストにあって組み合わされ、絵が完成されたのです。キリストにあって神の約束はアーメンとなりました(2コリント1:20)。旧約の預言はキリストにあって 完成されたのです。

イエスは神の言葉(ロゴス)そのものです。旧約においては預言者の口を借りた(時にはロバの口さえも)神は、もはや借りる必要はないのです。神の言葉その方(ロゴス)が肉体を取られたからです。彼の語る言葉はすべて神の言葉であり、したがって「預言(=預かって語る)」の必要はないのです。彼が語ることはすべて神が語ることでした。神は彼の肉体を用いて直接に 語ることがおできになるのです。この意味でもはや旧約的な預言者は不要となります。

キリストは死と復活を経て人間性を帯びたまま昇天し、同時にいのちを与える霊(1コリント15:45)として私たちの霊のうちに御霊によって住んで下さいます。神の言葉(ロゴス)である方が信者のひとりひとりの内に住まわれるのです(注)よって新約では「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」(ヘブル8:11)。神の言葉が私たちのうちにはすでにある のです!

(注)聖霊派でよく言われる、天には御父、その右に御子、そして地上は聖霊とする絵は三神論です。キリストは今やいのちを与える霊として聖霊により私たちの内に住まわれるのです。さらに父もおられます(ヨハネ14:23)。 私たちのうちにはYHWHエロヒム、すなわち父・子・聖霊が住まわれるのです。

御霊はご自分の言葉を語ることはなく、イエスから受けて聞いたままを語り、イエスに栄光を与えるお方、つまりイエスを私たちのうちに実体化する霊です(ヨハネ16:13)。聖霊の語る言葉は、したがってイエスの言葉であり、これは私の霊の中から語られます。私たちは内には主観的な神の語りかけがすでにあるのです。油塗りの経験です(⇒油塗りと油注ぎについて)。このうちなる油はすべてのことについて教えてくださいます(1ヨハネ2:27)。また外側には書かれた神の言葉である聖書が完成されています。客観的な神の言葉です。内なる言葉と外なる言葉は共鳴します。神はこうして各自に対して直接に語ることができます。

今日の預言のポイントは、将来起こることを予言することもあるでしょうが、それは本質ではありません。教会を建て上げるためです(1コリント14:1−6)。それはいのちの言葉を提供することです。内側の塗り油にとどまるときに、互いのいのちを養うための油塗りのあることばが与えられるのです。イエスはいのち(Zoe)を与える方です。このいのちが私たちを建て上げるのです。よって今日の預言はイエスと切り離してはあり得ません。新約の預言の理解と実行のキーワードは、黙示録(啓示録と言うべきです)19:10―「イエスの証しは預言の霊である 」に収斂します。

これはいわゆる「イエスに関する証し」に限りません。この言葉はかなり深いです。他のこと(例えば政治や経済)を語っていてもその言葉にイエスの証し(香り・雰囲気・らしさ)があるのです。新約の預言はイエスのパースンと業から離れてはあり得ないことです。私たちが魂の独立を否み、御霊に明け渡したとき、私たちの魂を通してイエスが語ってくださるわけです。よって魂の色(個性)がつきますが(例えばパウロの書簡とヨハネの書簡では個性がまったく違う)、しかしイエスの霊が塗られており、内容は真理に合致しているわけです。

この時イエスの人性において回復され栄光化された人間性がポイントになります。よって聖霊が単独で語るのでなく(これは旧約)、私たちの人間性において語るわけです。預言の霊は預言者に服するのです(1コリント14:32)。よってパウロ(癪持ちです)のように激昂することもあります。しかし神の言葉です。ここでヨハネ7章39節の「御霊はまだなかった」が鍵となり(邦訳では「注がれていなかった」ですが、これは意訳)、イエスの栄光化によって"ある"ようになった御霊がポイントです。旧約の神の霊と現在の御霊は神性において本質は不変ですが、経綸的・機能的に異なるわけです(=人との関係において)。現在聖霊は単に神の霊であるだけではなく、人間イエスの霊(ルカ23:46)に内住し、人間生活を体験した、イエスの人間性を証しする「イエスの御霊」です。だから深い部分でうめきをもって私たちのためにとりなしてくださいます(ローマ8:26)。

同時に私たちはすでにキリストの思い(原語)を持っています(1コリ2:16)。御霊と私たちの人間性の微妙な関わりからイエスが語るわけです(注)ここで敬虔の奥義(神が人間性において現れること)と関係するわけです(1テモテ3:16)。ちなみパウロはコリント人に「これは私が語るが・・・」とか「これを言われるのは主であるが・・・」と言いながら、「私も神の霊をもっていると思う」と書いています(1コリ7章)。また新約聖書の「霊」は御霊を指すのか、私たちの霊を指すのか訳し分けが難しいとダービーは言っています。新共同訳でも霊とか"霊"として区別していますが、曖昧です。なぜなら私たちの霊(元々神の息吹きです)とイエスの霊はひとつとされているからです(ローマ8:16、1コリ6:17)。霊が溶け合っているというべきか。こうして私たちは神のご性質に与るのです(2ペテロ1:4)。これが神の臨在の奥義 です(⇒聖書が究極的に語る事)。

(注)ちなみに、藤子・不二雄Fが死んだ後、ドラえもんを他の人が書いているらしいのですが、子供たちはのび太やジャイアンなどのセリフや行動の不自然さを直感的に分かるのですね、「のび太君はこんなこと言わない!」とか。先の黙示録の言葉は、「イエスはこんなこと言わない!」と言ったところでしょうか。イエスのパースンを体験的に知る ときに生まれる直感的感覚的判断ですね。

将来の予言的預言を否定するものではありませんが、それは第二次的なものです。預言はまず教会を建て上げることです。 将来の予言などは神の主権によっていくらでも与えられるものであり、あえて自分は預言者であると名乗りを上げたり、訓練するまでもありません。マタイ7:22や24:11を十分に心にとめるべきです。それは主の主権に属することです。

以上のようなわけで私はいわゆる「個人預言」をいただくとか、「預言の訓練」を受けることには懸念を覚えているわけです。今日世でも占い師は大繁盛しております。不安に対する処方を得たいのです。「個人預言」もそのような要素を帯びています。また預言をすることができるようになりたいのであれば、聖書の御言葉を学ぶべきです。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)とあるとおりです。私たちのうちに御言葉が豊かに住めば住むほど、溢れるように神の言葉を語ることができるでしょう。

(C)唐沢治

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