信仰と精神分析について



私はかつて東大の学生時代に、かの有名なベストセラー「甘えの構造」の著者であり、精神分析学者にしてクリスチャンであられる土居健郎教授の講義を受けたことがあります。同著は日本人の精神構造の特異性である「甘え」という心理を、森田正馬の定義した神経質タイプのノイローゼ患者さんの観察から発見し、それが様々の社会現象を説明し得ること、また実は日本人だけではなく、世界の人々に共通する精神病理であることを論じた画期的なものでした。現在でもその新鮮さは何ら損なわれてはおりません。その透徹した観察と分析はまことに見事であるとしか言いようがありません。

しかしながら、おそらくノイローゼで苦しんでおられる患者さんからすると、確かに精神病理は理解できたが、ではどうすれば自分はこの苦悩から解放されるのだろうか、ということが最大の関心事であることは容易に想像できます。つまり精神分析学者の論文として、それは確かにすばらしい業績には違いないのですが、ではどうすれば人間をその苦悩から解き放つことができるのかという具体的な処方箋は提示されていないのです。従来ですとアメリカにおけるハイソの人々の条件は、有能な弁護士、ファイナンシャル・プランナー、そしてサイコ・セラピストを抱えていることであるという価値観があったのですが、最近のアメリカの精神医学界では治療法としての精神分析の限界を認めざるを得なくなりつつあるそうです。つまり精神分析家が商売にならなくなりつつあるとのことです。

精神分析を創始したのはご存じのとおりユダヤ人のジグムント・フロイドでした。彼自身、強迫神経症に悩み、自己の精神の観察(自己分析)や、ヒステリー患者の治療体験から、人間の精神構造には、自分で意識できる領域と、自分でも意識できない領域があることを発見し、この無意識の領域における解消されていない葛藤を、催眠や自由連想法によって解消(カタルシス)してやれば、患者の意識レベルにおける葛藤や症状が消失することを証明しました。フロイドの精神分析は現代では古典的になりつつありますが、簡単に解説しますと次のようになります:

心的装置.jpg人間は誕生した時には精神構造は未分化の状態にありますが、両親や外界との接触の経験を積む中で、精神構造(フロイドは心的装置と呼びます)に個々の機能が分化してくるとします。そしてこの心的装置の中には精神機能を営むためのエネルギーとして、リピドー(=性的エネルギー)があるとします。この精神機能のエネルギー源を性においたことがフロイドの特徴で、これがために後にユングやアドラーとの葛藤と決別を味わうことになります。分化した心的装置として彼は、超自我(いわゆる"良心")、自我(意識できる部分)、イド(あるいはエス;無意識の部分)を設定しました。超自我は特に父親の価値観を自己のうちに取り込んだ部分で、父親の厳格さに比例して強固な超自我(良心)を形成するとします。自我はいわゆる意識される自分であり、イドは自分では意識できず、そこには混沌とした解消されない性的エネルギーであるリピドーが集積し、渦巻いているとします。

リピドーは正常な成長過程においては、まず授乳の際に唇における快感として満たされ(口唇期)、次に排泄の快感として満たされ(肛門期)、次に性器に対する興味を生じ(男根期)、しばらく潜伏期を経た後、最後に異性間において満足を得る成熟に至るとします(性器期)。ところがこの過程のどこかで適切にリピドーが解放されないと、その時期にリピドーの固着が生ずるとします。それがイドに抑圧されたエネルギーとして、その固着した時期に固有の形で、絶えず解消される道を求めて、自我(意識の領域)に登って来るのですが、自己の意識(正確には"前意識")におけるリピドーの反映のあり方が、超自我(良心)に照らして受け入れがたい場合には、超自我が検閲を行い、完全に意識に登る以前に再び抑圧してしまうとします。

しかし抑圧されたリピドーは、無意識の領域における感情観念複合体Complex)として存在し続け、その解消の出口を求めて、例えばヒステリー等の精神肉体的症状として現れたり、あるいは不安神経症、強迫観念や強迫症状など強迫神経症の形で現れたりするとします(→「サタンの要塞について」参照)。これは物理のエネルギー保存則にマッチするわけです。そこでこの抑圧されたリピドーを催眠状態自由連想によって意識に上らせた上で、それを解放してやれば様々な精神症状や肉体症状は解消されるというのが精神分析の基本的考え方です。このような人間性の理解は当時としてはきわめて画期的であったのですが、フロイドがあまりにも性的要因について強調するあまり、世間からは好奇の目によって扱われ、当初は正当な評価を得ませんでした。あたかも人間のすべての苦悩は満足されていない性的衝動によると考えられてしまったのです。

ここで精神分析における自由連想法はとにかく自我の意識できない過去の経験や、無意識における解消されていない葛藤を見出すために、自己の内側を掘り進む形でなされます(注)。その意識のポインティング・ベクトルはあくまでも自己に向かうわけです。自己の苦悩を解消するために、自己、自己、自己・・・と追求していくわけです。その過程はあたかも"玉ねぎの皮むき"のような印象すらあります。どこまで掘ったら、あるいは剥いたら良いのか、患者さんは途方に暮れてしまうのです。
(注)これに対して、東洋の禅とか、禅との共通性を指摘される森田正馬の創始した森田療法では、意識を自己から切り離すことをその究極的目的とし、人間を全人格的に取り扱うという点では、方法論的に精神分析よりも勝れております。
 意識が自己に集中することを「煩悩」とか「囚われ」とよびます(⇒「意識の扱い方について」)。例えば意識が体の異常感に囚われるとヒポコンドリー(心気症)、心臓の鼓動に囚われると実際にも発作を起したりする不安(心臓)神経症、自分の思い(観念)や人の視線などに囚われると、それぞれ強迫観念、対人恐怖症などの強迫神経症、さらに手の不潔感に囚われると手を何度も洗わないと気がすまない強迫行為という病態を呈します。
 禅とか森田療法ではある一定の修行によって、意識を自己から離す方向へ誘導します。この意識が自己から離れる経験を、例えば禅では「回心(えしん)」とか「自己放下(じこほうげ)」などと称し、また天才道元は「正法眼蔵」において「心身脱落、脱落心身」と表現しています。また禅学の大家鈴木大拙は、「意識がどこかに止まることが、心の安息にとっての障害となる」と述べております。
 剣、弓、茶、花などのいわゆる「道」は、鎌倉時代に禅と結びついて豊かな禅的文化を産みました。これらの「道」の目的は、すべて自己を忘れて、作為のない、何ものにも留まらない自由な心の流れを打ち出すことを目標としています。鈴木大拙の「禅と日本文化」とか、ドイツの実存哲学者のオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」などが参考になります。
 ただし、しばしば東洋の神秘思想と結びついて悪霊的な要素を持ち込んでしまう危険性がありますので注意が要ります。

事実、精神分析による治療は4、5年を要するのが普通であり、また精神分析家自体も教育分析といって、自分自身が分析を受ける必要があるのですが、分析家としての資格を得るまでにやはり5〜7年を要するのです。欧米ではそのようなカリキュラムがきちんとしているのですが、日本の現状はまったくお寒い限りです。例えば精神科医師で本当に精神分析が行える人は何人おられるのでしょうか(注)。ある意味で分析による治療は、分析家から独立した後でも、自己分析を生涯にわたって続ける必要があるわけです。

(注)ちなみにユング派の第一人者であられる河合隼雄博士は京都大学の医学部ではなく、数学科のご出身です。

フロイドはユダヤ人ですから、当然のこと聖書の影響を受けております。あるアメリカの精神分析学者は、精神分析学とはユダヤ教に科学的装いをつけたものである、とすら言っております。例えば「カイン・コンプレックス」、「夢分析」などはまさに聖書の中にヒントを得ております。しかしながら聖書が提示する十字架による人間の苦悩の解決は、フロイドが提示した方法論とはまったく別のものです。フロイドは自由連想によって、患者の過去を探り、無意識の中に抑圧されているリピドーを解消することを意図します。これに対して聖書では、人間の実存的不安や苦悩からの解決の道は「十字架による死」であると啓示します。

つまり精神分析が扱うのは、聖書の語る魂(soul)あるいは肉(flesh)の領域であって、いわばこの領域をオーバーホールした上で、もっとも最善の形で自己実現を図ることを目的とします。これに対して聖書で啓示する方法はまったく反対です。つまり、私たちが生まれついて所有してしまったアダムから継承した古い自己は、すでにイエスがご自身と共に十字架に付けて下さっているのです。精神分析で扱うべき自己はすでに十字架で死んでいるのです!だから改善の必要などはありません。そしてキリストにある新しい自己が提供されているのです。見よ、すべてが新しくなった、とあるとおりです。これが聖書にある救いの方法であって、それを得るのはただ信仰によるのです。私たちキリストにある者のうちには神から新たに生まれた存在があるのです。フロイドは古い皮袋を何とかリペアしようとしたのに対して、キリストは新しい皮袋を下さるのです(→「自己における死について」、「死と復活の原則について」参照)。

そこで私たちクリスチャンは、自己の内を見るべきではありません。もし見るならばそこには古い自己の残骸やがらくたが転がっているだけです。自己の過去の経験や自己の無意識などを明らかにしようとすればするほど、それは"玉ねぎの皮むき"のように、涙と臭さが漂い、失望に終わるだけです。このような古い自己における条件づけされた精神や行動のパターンを(flesh)と呼ぶことはすでに述べました。その肉をいくら分析しても何の解決ももたらしません。肉は日々十字架につけてしまえば良いのです(→「罪とは」参照)。クリスチャンはすでに信仰によって新しい自己を得ております。後はこの新しい自己、すなわち内に生きるキリストに最善のあり方で私たちの魂や体を通して生き出ていただければ良いのです。

生きるエネルギーもすべて私たちの霊におられる御霊が提供して下さいます。その御霊からの神聖なエネルギー(デュナミス,Dunamis)が私たちの魂の各装置(思い・感情・意志)を、内に生きているキリストの形に従って用いて下さいます。私たちを生かして下さるのは、フロイドの言うリピドーなどではなく、御霊のもたらす命のエネルギー、デュナミスなのです。私たちが自己から目を離して、キリストを見上げ、キリストに思いを置く時、御霊は信仰を息吹いて下さり、私たちがすでに得ている新しい自己(=うちに生きるキリスト)が、内側から輝き出て下さいます。私たちは私たちの魂の各装置をただお捧げすればよいのです。その装置自体を改善する必要などはありません。神聖な命のエネルギーで満たしていただき、用いていただくだけです。どんなにボロの器であっても、キリストが入って下さる時、それは輝くのです。これこそ私たちの希望です。

精神分析、さらには自己啓発セミナーやニューエイジの目指すところは自己実現です。十字架の目指すところは、自己による死を経るところのキリスト実現です。この世の方法は自己を生かすことです。十字架は自己を殺します。しかしその後の復活があるのです!精神分析は果てしなく継続される必要があります。しかしそれは"玉ねぎの皮むき"と同様に、"芯"がないのです。十字架による救いは、ただ一度のキリストと共なる十字架の死を信じるだけです。自動的に復活による新しい自己、すなわち"芯"を得ます。それは信仰がありさえすれば瞬間的な事件です。

もちろんその後、すでに得た内なるキリストが私たちの内で妨げなく生きられることを求める必要があります。しかしそれは自己努力によるのではなく、むしろ自己にあって死に、御霊に頼って復活にあって生きることです。それはとても楽なのです。ただ信じる時に、それは私たちの経験となります。精神分析がもたらすものは自己に対する絶望だけです。十字架のもたらすものはキリストに対する栄光の希望です。ただ信じるだけです!何と簡単なことでしょう。何という解放感でしょう。ハレルヤ!

(C)唐沢治

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