霊的シナジー効果-イエスの名にあっての意味-
今週のメッセで、祈りにおいてイエスが祈ることを語った。これが「イエスの名にあって(In the Name of Jesus)」の意味だ。「イエスの名によって」なる訳はよろしくない。なぜ?主体は誰であろう。イッツ・ミーだ。それは「私がイエスの名を用いて祈る」ことである。
ガラテヤ2章20節(Gal 2:20)も「御子に対する信仰によって」はよろしくないことを何度も指摘している。それは主体が私だから。「私が御子を信じることにより生きる」ことを意味する。違う。私ではなくキリスト!私は御子の信(faith)によって生きている。生きる主体は御子である!だからジーザスはこう言われた、「わたしが生きるのであなたがたも生きる」と(John 14:19)。
ここでも聖霊論が重要になる。聖霊はジーザスを私たちのうちに生かし、その言葉とわざを証しする霊(John 14:26;16:13-15)。ベニー・ヒンがイイ表現をした、「聖霊はジーザス・アンリミテッドだ」と。まことに聖霊はジーザスのマインドをアクティベーションし、私たちの口を用いて、ジーザスの祈りを解放して下さるのだ。私たちは自分の口を貸すだけ。ジーザスの祈りは百発百中である!
過去ログからこの辺を解き明かす記事を再録しておく。
昨日のメッセにて紹介したコレ、シナジー効果。英語ではSynergy Effect。Wikiにはこうある:
相乗効果(そうじょうこうか、シナジー、英: synergy)とは、ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。反義語は相殺、中和。相乗効果により、全体の最適化、効率化が発揮される。自然、経済、社会、など様々な分野で、この効果は測される。
まあ、ニッポンキリスト教の神学や説教ではまず聞かれない単語であろう。最近、Dr.Lukeはやたらと「バイブレーション」とか「ポータル」とか「チューニング」とか、ニューエイジ系の単語を連発していると言われる向きもあろうが、それは彼らが聖書を知らないだけ。すべて聖書の中にある単語である。
で、このシナジー効果なる御言葉はどこにあるのか。
なぜならば、わたしたちは〔まさに〕神の同労者であり、あなたがたは〔まさに〕神の畑、神の建物なのだからである。-1Cor 3:9(岩波訳)
この同労者と訳された原語は"sunergos"、つまり"sun"(union,with,together)+"ergon"(energy,work)だ。エネルギーを共有して行動すること。ポイントはこうだ。アレコレのいわゆる奉仕活動に没頭するキリスト教界の常識に反して、私たちは何もしないこと。これがカギ。ジーザス自身が言われた:
はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。-John 5:19
「できる・できない」を示すギリシャ語は"dunamai"、それは"dunamis"、つまりパワーがないということ。ジーザスは自分では何もできなかったのだ。が、彼は全能のわざを行った。われわれは結構自分でいろいろとできてしまう。が、死者を生かすことはまだしたことがない。カギは何か。エネルギーの問題である。
あのニッポンキリスト教でよく聞かれる「自我を否みぃ~!」がまったくの嘘である事を10年以上前から指摘しているが、われわれの魂の機能(思い・感情・意志)の機能停止することと勘違いしている人がかなりいる。自己の死とかも同じように無感覚や無活動と思い違いをしているのだ。
十字架は自己の死を実体化するが、それはエネルギーの源泉の切り替えである。ナチュラルな魂や体のパワーによる活動ではなく、スーパーナチュラルな神の霊のパワーによって生きること。これが十字架の本質(⇒自己における死について)。煙をもうもうと吐き出す10馬力のジーゼルエンジンによらず、1,000馬力のクリーンな水素ガスエンジンに切り替えることなのだ。つまりナチュラルからスーパーナチュラルへの転換、これが十字架。倫理や道徳や宗教のオハナシではまったくない。
私たちはすでにスーパーナチュラルな誕生によりニュークリーチャーとされ、スーパーヒューマンにしてネオ・ホモサピエンスである。が、この大脳と同期する魂がこれまでの生き方のパターン、つまりマトリックスを捨てきれないのだ。これでカウンセリングや精神科や臨床心理などの罠に陥るのだ(⇒信仰と精神分析について)。ゆえに依然として10馬力ジーゼルで生きようとして、周りに煙害と悪臭をまき散らす。これは肉(flesh)の慣性による(⇒肉について)。ちょっと待て、車は急に止まれない、というわけ。かくしてここを切り分けるのが十字架なのだ(⇒自己を否むことについておよび死と復活の原則について)。それはすべてフェイスによる。フェイスはその霊的サブスタンスを実体化するのだ(Heb 11:1)。
カギがお分かりでしょうか。それはエネルギーの問題、私たちは神のデゥナミスによって生きる。私たちはすでにキリストのマインドを持っているゆえに、それがアクティベーションされてナチュラルなマインドがスーパーナチュラルなマインドに座を譲るとき、キリストのマインド、感情、そして意志決定が私たちの魂(soul)において再現する。
つまりキリストが私たちの魂と体を通して生きるのだ。これがエペソ5:1(Eph 5:1)にある神をエミュレーションすること。そもそもジーザスは父をエミュレーションしたのだから。かくしてパウロは言っている、生きるとはキリストだ、と(Phil 1:21、新共同訳)。これを「キリストのために生きる」とか宗教的に勝手に解釈しないように。To Live is Christ! 聖書は生命現象の書なのだから。
私たちが父・子・聖霊の三位にいます神、YHWH(=The most high Elohim)のエネルギー(Dunamis)にチューニング(共鳴)し、そのインパーテーション(分与)を受ける時、Elohim属とされた新しい人類である私たちの魂と体において、神の霊とのシナジー効果が起きる。このとき、何かが起きるのだ!WOW!!! 神はその生命現象に参加せよ、と私たちを招いておられる。「きよく・まずしく・ただしく・・・」といった宗教の霊から解かれよ!キリストは私たちを自由へと召し出してくださったのだから!パウロは言う―
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。-Phil 2:13
何事であれ、あなたのその願いを祈りと賛美と感謝によって神に申し上げ、祈りつつ大切に育てること(Phil 4:6-7)[1] … Continue reading。それは神のエネルギーを注入されて健やかに育ち、豊かな実を結ぶのだ。これこそ霊のシナジー効果である。
(初出:2016年9月19日)
References
↑1 | 神の意志と一致しない自分勝手な願いは、祈り続けることはできないし、そのうちに白けてしまう。あれ、自分、なんであんなことを求めていたのだろうか?と。が、何であれ願いを感じたらとにかく感謝を捧げる祈りによって神に知っていただくこと(Phil 4:6)。自分でこれは肉か霊かとかジャッジする必要は全くないのだ。 |
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