フェイスは霊・神のわざ・しもべである

日本語で「信仰」と聞くと、それぞれのオツムに構築されたマトリックス回路が作動するゆえに、オレの信仰、あなたの信仰・・・となることを指摘している。これはけっこう一部のプライドを刺激するようだ。自分には自分の確固たる信仰があるのだ、とやかく言われる筋合いはない!と・・・。

視力と言ったとき、オレの視力、あなたの視力とはならないであろう。それは与えられたセンサー、機能、能力。確かに視力の良し悪しはあるが、視力とは物理 的サブスタンスである電磁波をキャッチし、内的に実体化する能力。これは万人に共通。同じようにピスティス、すなわちフェイスも霊的サブスタンスをキャッ チし、実体化する能力なのだ。それは霊による信力と言える。

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor4:13

つまり、フェイスとは霊である!オツムで聖句をアレコレいじくって、その読解や解き明かしをするのではない。それは単なるオツムのマトリックス。霊的サブスタンスを知るのは霊。フェイスは霊的領域へのチャネル、ポータル。ヘブル11:1(Heb 11:1)の"faith"には定冠詞がないことに注意と何度も指摘している。それは一般名詞、ニューエイジもフェイスを用いている。ただわれわれとはチャネル、ポータルが異なるのだ。われわれのそれはジーザス

フェイスにより語り出された言葉、つまりレーマは霊であり、いのちである(John 6:63)。語り出された神の言葉は無益に帰ることはない、必ず何かを成し遂げる(Isa 55:11)。フェイスはわれわれの僕(しもべ)、私たちが命じたことを忠実に行ってくれる(Luke 17:5-10)。昨日のある姉妹の証:ある事について祈ると主の油塗りと平安が与えられた。すると思い煩いとか不安や恐れが消失 した。祈りが通ったことは分かった、・・・けど、私自身も何かしなくてよいのでしょうか?と。これがナチュラルなマインド。が、僕であるフェイスは忠実に言うことを聞いてくれるのだ。

ポイントは、誰の言葉をどう聞いて、どう語り出すか。ジーザスは内なる父の言葉を聞いてそのとおりを行った。またそれを語り出した。それだけ。彼のわざ は、聞いて、語り、行う、これだけ。私たちも同じ。ややこしいナントカ神学とかカントカ主義とか、そのようなマトリックスに絡め取られないこと。マインドが透明であれば明確に内なる神の声を聞くことができる。

「フェイスは僕である」にはまたぞろ異論があるようだ(Luke 17:5-10)。「信仰」を日本語マトリックスで考えるむきは特にであろう。ヨハネ福音書でも弟子たちが「神のわざを行うためには何をしたらよいでしょうか?」と尋ねると、ジーザスは「父が遣わされた者を信じることこれが神のわざである」と答えた(John 6:29)。ここで日本語マトリックスは、「ふー ん、行いではなく、信仰が大切なんだ」と考える・・・。

が、よく読んでほしい、ジーザスはそんなことを言っていない! 信じること(ピスティーオー)、つまりフェイスは神のわざである、と言っているのだ。See? 人は、何かせねば、と考える。神は、わたしがする、と答える。これがフェイス。フェイスは私の何かではない。神のわざ、つまりスーパーナチュラル。だから「神のフェイスを持て」(Mark 11:22)。私たちのために何かを成してくださるのは神ご自身であると。自分で「信じます、信じます」とやって裏切られたと感じる者がけっこういるが、とんでもなく勘違いしているゆえだ。

フェイスは霊であり、神のわざであり、スーパーナチュラルなしもべである。キリスト教の「使徒信条」云々とかのレベルではない。小学生時代、近視の私は見栄を張るため、視力検査の際、あらかじめ視力検査表を「りさつくけてへこ」と暗記して、それを答えたものだ。何を言いたいか分かりますよね? これがキリスト教なる宗教。「使徒信条告白~!」とかは「りさつくけてへこ」。キリスト教なるマトリックスを離脱せよ。霊的センサーとキリストのマインドをアクティベーションせよ。見える人には「りさつくけてへこ」は不要なのだ!

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