願いとフェイスの違い

よく言われるセリフがある。主に祈ったのに与えられないとか、癒されないとか・・・。これ、一部の人々を憤慨させるかもしれないが、はっきりとする必要がある。多くの場合、その「祈り」は願いのリクエストに過ぎないのだ。

ある人の言葉にこうある:神は私たちの必要に応えるお方ではない、フェイスに応えるお方であると。リクエストとフェイス、このふたつは似ているようであるが、まったく質を異にするのだ。この意味で、私は祈りの答えを得る人と得られない人が、彼らの言葉によって分かる。

繰り返すが、フェイスとは願うことのサブスタンスであり、目に見えないことの立証である(Heb 11:1)。そしてフェイスがなければ神に喜ばれることはできない(Heb 11:6)。この意味で信じて仰ぐ、すなわち信仰とは異なるのだ!もっと言えば「信じる」という訳語も適切ではない。ギリシャ語のピスティオーは伝統的に"believe in"とか「信じる」と訳されてきた。これでトラップに落ちる。

フェイスはシックスセンス。それは霊的サブスタンスにタッチし、それをこの物理的時空間に現出させるパワー。視力は電磁波を実体化し、聴力は空気の粗密波を実体化する。そしてフェイスは霊的サブスタンスを実体化する。ゆえにある人々はヘブル11:1をこう訳する:

さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである。-新和訳(幻冬舎ルネッサンス);Darby訳では"substantiation"

罪の赦しも、病の癒しも、必要の満たしも、すべてはすでにイエスの十字架により成し遂げられている。主は「完成した」と言われたのだ(John 19:30)。それは霊的サブスタンス。すべてはすでに備えられている!それを私の経験とするのがフェイスであり、それは霊の機能である。霊の事柄は霊によって知るのだ(1Cor 2:13-14)。

霊が開かれない限り、聖書の言葉をオツムでいじくっても何らも生み出さない。それは現代文読解講座のようなものだ。御言葉を白黒の文字としてとらえても知識を増やすだけ。この業界、かなり耳年増が多いのだ。御言葉の啓示するサブスタンスをゲットすること!フェイスとはそれなのだ。ブルース・リーの名言、Don’t think, Feeeel!(考えるな、感じよ!) ただしこれは霊によるシックスセンスではあるが・・・。ホープからフェイスへ、それはラヴから生まれるのだ(Gal 5:6)。

信仰と希望について

 義人はカネによって生きる;義人は常識によって生きる;義人は学位によって生きる;義人は資格によって生きる;義人は人間関係によって生きる;義人は・・・・。自分が何によって生きているのか。これ、私たちに対する神のかなり厳しい問いかけ。フェイスは永遠のNOWにある十字架を実体化するのだ!

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