宿営(キリスト教)を出て御元(スーパーナチュラル)へ!

わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出てそのみもとに赴こうではありませんか。-ヘブル13:10-13

宿営とは何か。ジーザスは当時のユダヤ教の教職者たちにより拒絶された。ジーザスの十字架にはヘブル語、ギリシャ語、ラテン語で罪状書きが記された。そこには見事にYHWH(I AM=ありてある)が浮かび上がっていたのだ!

ヘブル語は宗教の象徴、ギリシャ語は文化の象徴、ラテン語は政治の象徴だ。つまりジーザスは宗教と文化と政治から捨てられた。宿営とはユダヤ教であり、宗教の体系である。そして今日それはキリスト教だ。伝統や習慣により構築されてきたキリスト教なる宗教体系を出てこそ、まことに主の御元に行くことができる。幕屋に仕える者(=宗教にいる者)は食べる権利がないのだ![1]何を?と言う人はそもそも食べたことがない人だ。一口でも食べた人はすぐに分かるはず。御言葉は続く―

わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。-ibid 14:14

われわれが生きる領域はスーパーナチュラルな領域。それは霊のサブスタンスにより霊のリアリティに生きること。

今、フェイスとは願う事柄のサブスタンス、見ていない事柄の立証である。-ヘブル11:1

キリスト教は所詮地上の体系に過ぎない。主は宿営の外で焼かれた。われわれも宿営の外に出て、主の御元に行こうではないか!

追記: 繰り返すけど、なんでぼくがこのニッポンキ業界をコケにするかと言いますと、そもそも「牧師」なんてものは聖書に啓示されていないから[2]エペソ4:11(Eph … Continue reading。加えてジーザスが明白に断罪しているわけ。

天のリアリティーどおりに幕屋を作れとモーセは言われたでしょ?勝手に人間がでっち上げてシステム化したものが宗教としてのキリスト教。そんなものは草木藁のもの、主の前に立つ時、みんな焼き払われますから。

だから早く気づけって、言っているわけ。まあ、捨てられないのが人間ですけどね。捨てられた人は幸いです。

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1 何を?と言う人はそもそも食べたことがない人だ。一口でも食べた人はすぐに分かるはず。
2 エペソ4:11(Eph 4:11)は四役、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧・教える者とされたのであって、「牧師」なるものは邦語訳がそうしただけなのだ。邦語訳はウソが多いから要注意。幕屋の立て板は四本の横木で結合されていたが、それだけではひとつにならない。見えない一本がすべてを貫いていた。これが聖霊である。しかも牧者は一番下のランク。よく夫婦で教会やって、ダンナが牧師、奥さんが伝道師で牧師見習いみたいですが、それはニッポンキ業界の伝統・慣習に過ぎないわけ。ヤラセです。

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