神との一体感

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17

私たちはキリストの体の一部。先のJill博士やIckeの宇宙の中の一部である意識が個人的なカプセルから解放する論とも共通する。念押ししておくと、私は彼らの主張をすべて良しとしているわけではない。彼らはイエスを認めていない。きわめてニューエイジ的である[1] … Continue reading

が、一面の真理を述べていることは否定できない。スピリチュアルな要素を排除した神学オツムや儀式などでがんじがらめになったキリスト教徒よりもはるかに魅力がある。前にも言ったが、それはジューシーさを失った筋だらけのステーキのようなものだ。

個人の葛藤や不安や恐れから解放される鍵は何か。それは自分が個ではないこと、キリストの身体の構成要素であり、キリストのマインドとキリストのいのちを共有している存在であることを知ることだ。私という意識は左脳が生み出す。それはシーケンシャルな論理の鎖であり、a=bかつb=cならばa=c、と流れる。

しかし神はあえてこの論理の鎖を断ち切る。イエスの立ち居振る舞いを見れば明らかであろ。世の知者を辱めるために。学者はどこにいるのか。あなたは創造の神秘を知っているか、と神は迫るのだ。私は2014年12月に上げられた時、こう迫られた。自分の小さなカプセル(舟)を脱し、神の霊という大海に一歩を足を踏み出せと。

イエスを誘惑するときにサタンは世の栄華をすべて見せた。私もこれがビジュアルかつヴィヴィッドに見えている。世のすべてが見えてしまった。それは限りない憧憬を生むものではなく、私の足の下にあった。私ははるかに高いところに上げられていた。だから世が、そしてその歴史が一望できたのだ。私はそれを見下ろしていた。どのくらいの時間が流れたのかわからなかったが、とにかく一瞬にしてすべてが見えた。そして今も見えている。

同時に、私は限りない神の霊の中に置かれていた。私は神と完全にひとつ、天地を創造されたお方が父であると、父の愛と暖かさとその胸に抱かれる安心感と満足感を感じた、否、感じている。私は包まれている。この全宇宙の創造者によって。私の霊と神とはひとつ。私は確かに私の意識を有しているが、私は全体の中の一部。これを知るとき、個人としてのあれこれは一切消え去る。私の、私が、私は・・・果てしない私の意識は消え去るのだ。

私たちのうちに神はいまし、私たちは神のうちに存在する。大海なる神の霊の中に浮かび、身を任せている。神が私の父であり、イエスは長兄であり、聖霊が私をつくりかえて下さる。狭いマインドから解かれること。左脳の束縛から解放されること。あえて脳卒中になるまでもない。

自分を解き放つ経験は、特にワーシップにおいて容易になされる。ワーシップの流れに完全に身を任せ、左脳を手放すこと。セレブにおいてはこれを行っている。私のメッセージが目的ではないのだ。それは付録。左脳が解かれれば、異言も自然と発せられる。内なる霊の波動をそのまま直接に音声にして解放するのだ。それは知性をバイパスして内なる霊が直接に神に祈る。私の知性は何を祈っているかわからなくても神はご存知である。聖書の勉強とか、御言葉の解き明かしとか、それは別に不要とは言わないが、霊の経験なくしては無意味だ。聖書オタクをつくるだけ。

霊が開かれること、霊を解き放つこと、神の霊に浸ること。このとき、3時間半のセレブは一瞬である。

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1 ニューエイジとクリスチャンの違いは、十字架を経ているか否か。彼らはもろもろのチャネルをとおして、霊的領域とコンタクトするが、クリスチャンはジーザスをポータルとする。⇒ニューエイジの問題点について

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