W.ニーによる『魂の潜在能力』-今日的”しるし・不思議”に対す警鐘

W.ニーによる”The Spiritual Man“の続編とも言える書。アダムはもともと神に似せて、神の様に創造され、地と生物を統治する能力を得ていた。彼の堕落以前の能力は、現在の私たちの能力と比すると、ほとんどスーパーナチュラルなのだ。が、堕落によってその能力は魂のうちに封じ込められた。これがある種の人々においては肉体の制限を破って出現することがある。これがいわゆる超能力だ。私たちには、ある種のスーパーナチュラルな現象と見える。いわゆるしるしや不思議を追求するクリスチャンも、これらの魂の潜在能力による現象を、聖霊によるしるし・不思議と混同する向きがある。

W.ニーはここで警鐘を鳴らす。クリスチャンにとってのしるし・不思議はあくまでも私たちの霊を通して聖霊が働かれる結果であり、自分の魂の潜在能力が発揮された結果ではないと!前者は新創造から生み出されるものであり、後者は旧創造のものに過ぎない。しかもしばしばサタンがその手助けをしている。サタンは再生されたクリスチャンの霊にはタッチできないため、魂に働きかけて、その潜在能力を煽る。その目的は、神に頼りつつ、神の栄光を求めるのではなく、自分の栄光を追求すること。もっと言えば、自分を神とすること。サタンの根本的動機はそこにあるのだ。

今日、終わりの時代において、いわゆるしるし・不思議、さらに奇跡などを求める傾向がどんどん強まり、実際にその現れもこれまでになく頻度を増す。しかし、この霊による現象なのか、魂による現象なのか、この識別がきわめて重要なのだ。まことに反キリストはこの魂の潜在能力によって大いなる業をなすのだから。ここでも鍵は、霊と魂の切り分けにあるのだ(Heb 4:12)。

私がこのところ強調しているスーパーナチュラルは、もちろん魂を否むことによる霊からのもの、それは聖霊による。その聖霊の働きを阻害するのがむしろ魂のマインド(思い・知性)なのだ。だから、マインドのトランスフォーメーションが重要になる(Rom 12:2)。それは十字架によるのだ。すなわち魂の能力をあえて否むこと(Luke 9:22-23)。最近、Dr.Lukeはやたらとスーパーナチュラルを連発して、危ない傾向に入っていると思われる向きがあるようだが、私は根本を外していない。私が求めるスーパーナチュラルは新創造のもの、つまり霊からのものであり、魂の超能力によるものではない。表層的な判断はなさらないようにお願いしたい。

そもそも、「霊の再生」にしろ、「聖霊の内住(もちろん父と子も)」にしろ、「体の変貌」にしろ、すべてはスーパーナチュラルな現象なのだ。元より聖書はスーパーナチュラルな世界を提示しているのであって、それを物理的時空間において五感だけを頼りに解釈したり、御言葉を”解き明かし”たりするために、真理が毀損されるのだ。かくして三浦綾子や遠藤周作の彼らのマインドにはまる文学の世界に矮小化、あるいは歪曲化される。時には神学化も。

スーパーナチュラルな神はすでに天を裂いて、地に介入されている。神の国のサブスタンス(実体)がすでにこの物理的時空間に介入しているのだ!(Matt 12:28)私たちの霊は神の国へのポータルであり、私たちはイエスというポータルを通して、出たり入ったり、つまりこの物理的時空間と霊的世界を行ったり来たりすることができる存在なのだ。つまり神の国と地との狭間に存在する、新しい創造、ニュークリーチャーなのだ!

 

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