人間はトーラスである-霊と魂の調和した姿

内視鏡なる単語がある。胃や腸の”中”を観察するツール。私もかつて大腸検査をして、自分の腸の中を視た。不思議な感覚がしたものだ。が、実は胃や腸は内部ではない。トポロジカルには外部である。つまり体表面から指で口から肛門まで断絶することなくなぞることができる。トポロジカルには人間はトーラスなのだ。いわゆるドーナツだ。赤い線をメリディリアン、桃色の線をロンジチュードと言う(それぞれ球面の緯度と経度に相当)。このふたつキレイに絡んでトーラスが構成される。

その肉体は土のチリから構成された。その肉体を活かすのは霊。果たして霊がどこにあるのか?ソロモンはこう言っている:

あなたは、胎の中で風(霊)の道を知らない・・・Eccl 11:4

ここは口語訳では

あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。

とあるが、写本の違いによるようだ[1]霊は物質に閉じ込められることはないから、骨の中にある(限局)というわけでない。

私の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』の中で、霊と魂の場が存在することを指摘した。それはちょうど地球の磁力線のようなものであり、地球はこの磁力線によって太陽からの有害物質を遮断されて、守られている。この磁力線はトーラス。

私たちはうちに神を宿し、神の霊が私たちの身体の包み、守っているのだ。私たちが醸すいわゆるオーラはこの霊と魂の場の反映である。魂のうちにある要塞(傷・恨み・苦々しい思い・嫉妬・妬み、etc.)があると内なる神の霊のエネルギーの流れが阻害される。この霊のエネルギー流れの場を、磁力線にならって、霊力線と言っても良いかもしれない。魂のそれを魂力線と言えば、霊力線が魂力線によって縺れ合って乱されてしまうのだ。ゆえにフェイスが発揮されるためには霊と魂の分離が必要となる(⇒霊と魂の分離について)。これは神の言葉(ロゴス)による[2]この聖句も邦語訳は不正確。御言葉(ロゴス)により魂と霊が分離されるのだ。

というのは、神の言葉(ロゴス)は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。-Heb 4:12

私たちの大脳は魂の働きと同期する。特に大脳とマインドの関係が重要であることは著書でも指摘した。マインドのパワーは神が保証している。マインドのトランスフォーメーションと共に大脳のニューロンネットワークやシナプスでの化学伝達物質などの働きも変化しているのだ。toxic thoughts(毒性思考)などは明らかに大脳を損傷する[3]愛情を受けることない育ち方をした子供の脳は成長が遅れる。器質的にも損傷されるのだ。

マインドが整えば、大脳生理も整い、感情、意志も整えられる。すると魂力線がキレイに流れるようになり、それは霊力線と絡んだり、その流れを阻害したりしない。要するに霊と魂の関わりが創造主の意図どおりになるのだ。すなわち魂は自律的に勝手に作動するのではなく、霊に即して、霊からの情報を受けて機能する。それはすなわち神の思考を受信することであり、知性はそれを言語や映像にして理解する。すると感情と意志もそれに従う。その結果が肉体を通して表現されるのだ。こうして神は肉において現れる。これが今週のメッセで語ったこと。

対して、マインドが悪霊の思考や言葉を受信すれば、罪定めや自責感などのネガティブな影響を受け、感情も暗くまた抑うつに閉じ込められる。すると内なる神の臨在はかき消され、霊力線も消失し、醸すオーラも暗いものとなる。うつ病の人は表情を見ればすぐに分かるが、それは彼らの発するオーラによるのだ。簡単に言えば、彼らの魂が強すぎるわけ。霊を圧迫してしまうのだ。

また肉体の症状に囚われる人も、それによって魂と霊を圧迫する。魂と肉体を主体に生きる様を肉(flesh)と呼ぶことは何度も指摘しているが(⇒「肉」について)、まことに肉の思いは死であり、神に敵対している(Rom 8:6-7)。神に敵対するのだから、祈りが叶うはずがない。ゆえにわれわれは自分の魂を救おうとすべきではない。救おうとすれば失う(⇒自己を否むことについて)。これは肉体のいのちも同じ。癒しがしばしば神を賛美し、神の臨在に満たされて、自己を忘れた時になされることは実に興味深いことである。

かくして、霊と魂がちょうどトーラスのメリディアンとロンジチュードのように互いにキレイに絡むとき、私たちの霊と魂の場はエネルギーの流れの美しいトーラスを形成する。この時、神の声を明確に聞く(受信)ことができる。魂は霊に服し、霊の領域の情報を受信する。決して身体の五感によって影響される魂が主役ではない。イエスはこのように霊が主役であり、魂と肉体は霊に服している生き方を体現されたのだ。そしてそのような人間が何をなし得るかのデモンストレーションをされた。霊の領域のサブスタンスをこの物理的時空間に現出させること。つまりフェイスのパワーを示された。

おおよそ、聞く者は、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。-Matt 13:12[4]写本によって「聞く者」が落ちている。邦語訳も同じ。

この意味で、私の本体は肉体や魂ではなく、であるべきなのだ。つまり私の本質はエロヒムである。エロヒムの霊から生まれた霊はエロヒムである[5] … Continue reading。真の私である霊がアクティヴに生きるとき、そのバイブレーションがヴィヴィッドに魂に反映される。そのとき神が私たちの魂と肉体において現れるのだ。

その霊の場が新創造であるエクレシア。つまりエクレシアとは人を通して現出されるエロヒムと言える[6] … Continue reading。これが敬虔の奥義。敬虔と訳された単語はeusebeia[7] … Continue reading

美しいトーラスの追求。それはすなわち五感からの離脱。シックスセンスであるフェイスの覚醒によるのだ!

 

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References

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1 霊は物質に閉じ込められることはないから、骨の中にある(限局)というわけでない。
2 この聖句も邦語訳は不正確。御言葉(ロゴス)により魂と霊が分離されるのだ。
3 愛情を受けることない育ち方をした子供の脳は成長が遅れる。器質的にも損傷されるのだ。
4 写本によって「聞く者」が落ちている。邦語訳も同じ。
5 エロヒムを「神」とか”God”と訳すことが罠であることは何度も指摘している。エロヒムという霊的生命体なのだ。その最も高きエロヒムがYHWHである。
6 エペソ1章23節は邦語訳では「教会とはキリストが満ちている」となる。口語訳では「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」となり、まだ原語に近い。元々はpleroma、で充満(岩波訳)と言える。つまり、教会はキリストの充満だというわけ。教会なる訳語はあまり好きではないので、言い直すと、エクレシアはキリストの充満。は!?エクレシアって何?キリストだ!あえて霊の場としたが、それは人にあって現出された神そのもの(1Tim 3:16)。神の霊のバイブレーションそのものがエクレシアなのだ。
7 ただし、注意して欲しいのは、ローカルチャーチのウイットネス・リーは、神性と人性が混ざり合って(mingling)、存在論的に人が神になる、とする。すなわち、教会とは神人(God-man)であると言うのだが、人が神になれるわけがない。私たちの肉体と魂の領域と霊の領域には明確な一線があることをあえて指摘しておく。

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