フェイス・ヒーローたちから学ぶ

1.ジョン・ノックス

時は宗教改革の嵐吹き荒れる16世紀英国。ジョン・ノックスはカルバンの影響でローマカトリックを離れて長老教会を設立。スコットランドを改革するが、カトリックの女王メアリ・スチュワートと対立。同じ頃イングランドの、こちらもカトリックのメアリ女王は、プロテスタントを滅ぼすべく300人を処刑して、ブラッディ・メアリの名を残す。スコットランドを攻撃するメアリの姿勢に対して、ノックスは祈る。「神よ、私にスコットランドを与えてください!そうでなければ死を!」と。

するとメアリの虐殺指令は中止され、メアリ自身が重病に罹る。死の病の最後の苦しみの中でメアリーは、絶叫した。「あぁ、ジョン・ノックスひとりの祈りが百万人の大軍より怖い!」と。対してジョン・ノックスは、告げた、「祈るひとりの人は祈らないひとつの民族より強い!」と。1572年11月24日に召された彼の碑文にはこうある。「ここに神の他には肉なる者を恐れない者が眠る」。

政治と宗教の混乱に巻き込まれたジョン・ノックス。世の物差しで生きたら明らかに敵の罠に陥る状況だ。彼は神の物差しだけに従った。再建主義の富井氏もよく言われるが、われわれの祈りは国家を動かし、ひとりの祈りが国家を滅ぼすこともできるのだ。なぜ? 天地を創造された神が動かれるから。神の物差しによる祈りは神を動かす、否、神はそのようなわれわれの祈りを待っておられる。アブラハムのとりなしの祈りの時のように。

2.ジョージ・ミューラー

あるクリスチャンの船長が彼を乗船させたときの事。ミューラーは船長にこう申し出た。

「船長、伝えたいことがあります。どうしてもカナダのケベックに土曜日の午後までに到着していないとなりません。」

「それは不可能ですよ」と彼は答えた。

するとミューラーは言った、

「わかりました。この船がケベックに土曜日までに着くことができないなら、神は別の方法を何らかのかたちでみつけられるでしょう。私は57年の間、ただの一度も説教奉仕の約束を破ったことがないのですから。さあ、海図の広げてある下の部屋に行って祈りましょう。」

船長はこの神の人を見つめ、もしかしたら精神病院のお世話になっているだろうか、と思わず考えた。

「ミューラー先生、この霧がどれだけ濃いのかご存知ですか?」

「いいえ、私はどれだけ霧が濃いかではなく、生ける神に目をとめているのです。神は、私の生活のあらゆる状況を支配しておられるのです。」とミューラーは答えた。

それから彼は、もっとも単純な祈りを捧げた。その後で船長が祈ろうとすると、ミューラーは彼の肩に手を置いて、祈らなくてもいいと言った。そしてこう説明した。

「第一に、君は主が御業をなされると信じていない。第二に、私はすでに主が祈りに応えてくださったと信じている。だから君が祈らなくてはならない理由はどこにもない。」

船長がミューラーを見つめていると、彼は続けた、

「船長、私が主を知るようになってから、もう57年になりますが、主が私の祈りを聞かれなかった日は、一日もありません。船長、さあ、立ちましょう。扉を開いてご覧なさい。霧はもうなくなっています。」

立って扉を開くと、確かに濃霧は消え去っていた。

土曜日の午後、ジョージ・ミューラーはケベックに到着し、予定通りに奉仕することができたのだった。

何でも祈り求めたことはすでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。-Mark 11:24

天のサブスタンスに生きる人は地の人からは精神病院行きと見えるのだ・・・。

3.ウォッチマン・ニー

働きに倦むときに
永遠の励まし-ニーの最期

* * *

これらの過去のいわゆる”フェイス・ヒーローたち”の物語は実にエンカレッジだ。神は、ある者は霊性、ある者は経済面、ある者は癒し、ある者は預言・・・とそれぞれに強調点というか、委ねられた任務あるいは配剤は異なる。私は若い頃からウォッチマン・ニーの助けを受けているが、彼はある部分を委ねられたに過ぎない。また彼の生き方を再現しようとしても、それは無理だ。

ジョージ・ミューラーにしても同じ。彼は若い頃投獄されるも、カネ自体を追求していなかったが、生涯に150万ポンドを神から託された。今日の価値にして、1ポンドはだいたい3万円。ニーにしても組織に頼らず、主にのみ頼る生活であったが、決して貧困だったわけではない。むしろ多くの同労者を援助していた。

私もここまで生きてきて感じることがある。ある兄弟がポツリといったセリフが印象に残っている。人間って、本当に必要な本ってそんなにないって分かってきた。聖書と生活に必要な情報ブックくらいで十分だ、と。これは明言。

私もかつては本で足の踏み場がなく、その中に埋もれていた方だが、最近はどんどんブックオフに通っている。その他、家具備品、洋服なども無駄なものが山ほどあることに気がついた。そこで断捨離。ちなみに曹洞宗の禅寺では食器と僧服、そして畳1畳ですべての生活を行う。それで十分。パウロも言っている:

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。-1Tim 6:6-10

確かにこの地上を生きるために必要なものはほんと少なくて済む。しかし、これはカネを得ることが悪だと言っているのではない。主は不義(正確には「不公平」)なカネ(マモン)を用いても友を作っておけと言われるし、ここでもカネを愛することが悪の根だと言っている。

カネは元々フェイクに過ぎないが(誰も北朝鮮の紙幣などは欲しくない)、この世をしのぐためには手段としてあるに越したことはない。というより、神の国の発展のためにはマストなのだ。はっきり言うが、貧困は呪いだ。それは貧困の霊による。アブラハムもイサクもヤコブもみな富んでいた。

しかし、カネがあっても貧困の霊に捉えられることがある。カネを自分の才覚で稼ぐとそこにプライドが生まれる。かつての私などもそうであったが、それは虚しい。人は自分のためにだけ生きることはできないのだ。

前にも書いたが、ヨハネの祈り、魂が繁栄しているようにあらゆることで繁栄し、健やかであることは、魂のエクセレントさのことを言う。カネを自分のアイデンティティーの物差しにすることは決してエクセレントではない[1]確かにカネは向上へのモチベーションになる。よって若い人にはどんどん稼げとエールを送るが。

これからの鍵は何か。それは神からどれほど委託されるかということ。ジョージ・ミューラーなどはまさに神の信頼を勝ち得て、あれだけのカネを任されたのだ。私もかつて[2]30そこそこからずっとニッポンの上位1割に入っていた。よりケタを上げたいと言うのはそのことだ。ニッポンキリスト教の一部の卑しさは言わずもがな、特に什一献金を諸悪の根源のように断罪する。ああ、なんという貧しさ。まことに貧困の霊がなせるわざだ。

これははっきりと証しできるが、捧げることは大いなる祝福。魂のエクセレントさを味わうことである。得るためにはまず捨てること。手放すこと。捨てた者は得る。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」-Mark 10:29-31

神の国のために捨てた者はこの世にあってもその百倍を得るのだ! 捧げることの祝福を味わうことは、実は特権なのかもしれない。物差しをただ神ご自身にのみ置き、すべて神のみにフォーカスすること。カギはひとつ心(James 1:8)[3] … Continue reading

 

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1 確かにカネは向上へのモチベーションになる。よって若い人にはどんどん稼げとエールを送るが。
2 30そこそこからずっとニッポンの上位1割に入っていた。
3 これは肉の思いにとってはリスクを覚えることである。原文では「分裂してない魂」の意味だ。神以外に保険を掛けないことである。神以外に当てにするものは、実はフェイク。欺きである。真理は神より頼りになる存在ないのだから!

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