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エゼキエル・トラウマに陥ることなかれ-その妻はなぜ取り去られたか?

下のヨブの記事に関連してご質問をいただいた。エゼキエルの場合はどうか?

また主の言葉がわたしに臨んだ、
「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。
朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じられたようにした。 –Eze 24:15-17

彼の妻は一瞬で取り去られた。イスラエルの人々へのしるしとして。なんと過酷なことを神はなさるのか。ご自分を知らしめるために、人々がご自分を主と認めるために、エゼキエルの妻は、おそらくなんの落ち度もなかったにも関わらず、取り去られたのだ。

この例をもって、自分の家族が死に瀕しているのは、主がご自分を現すために、あるいはご自分を主とするためのしるしなのか・・・・。とても自分は耐えきれない・・・。神に従うにはこのような代価が必要なのだ・・・。こうしてアレコレ、思いをこねくり回して蟻地獄に落ちる。フェイスを使うなどはどこかに飛んでしまう・・・。

はっきり言おう。これはトリックだ。忘れてはならないのは、旧約はすべてであり、であること。本体は、もちろんキリストだ(Col 2:17)。エゼキエルの妻の例も、本体であるキリストを指している。それは父なる神のタイプである。事実、父なる神はご自分の目に喜びである御子を捧げられた(Mark 1:11;John 3:16)。エゼキエルに対する過酷な要求、声をたてずに嘆け・・・云々は、父なる神ご自身の嘆きである。父なる神はご自分を知らしめるためのしるしとして、最愛の、唯一の御子を取り去られたのだ!

このエゼキエルの例を新約にある私たちの状況に適応するのは誤っている。もし、家族が病気であるならば、すでに御子が捧げられ、すべての代価が払われている故に、大胆に時期を得た助けを受けるために恵みの御座に近づくのだ(Heb 4:16)。そこにはすでにイエスの血が注がれているのだ。信仰によってご自分の元に来られる者をすべて癒して下さる!間違えてはならない。宗教の霊は御言葉を利用してわれわれを偽りに閉じ込める。神が犠牲としてあなたの家族を要求しているのだと。これは御子の犠牲を無にすることである!

これらのエゼキエル・トラウマによるトリックはすべてフェイスの欠如による自己憐憫のなせるわざだ。神がキリストにあって何をなされ、自分が何者であり、自分はどこにおり、自分は何を成し得、自分は何を得ているのか。それに基づいて何を要求することができるのか。このことを十分に確認する必要があるのだ。

このような場合に必要なのは、まず自分に信仰がないことを認めること;それを悔い改めて聖霊に息吹いていただくことを求めること。自分のマインドに去来する思いではなく、御言葉を取り、御言葉に固く立つこと。つまりヨブと同じように、自分を退けることが本質なのだ1)宗教の偽りの十字架は、癒しを求める自分の願いを退け、神に犠牲を捧げよと迫る。繰り返すが、これは御子の十字架と犠牲を無効にすることであり、恐るべき罪である。偽りの十字架を負わされることなかれ!。これが十字架だ!自分を退けて御言葉を選ぶならば、しるしとしてのイエスが払われた代価に基づいて、正当に癒しや必要の満たしを求めることが出来る。それは私たちの法的権利なのだから。

ある者はいうであろう、Dr.Lukeよ、高慢だ。神に対して正当な権利を主張する?これも宗教の偽りの謙遜。まことの遜りとは御言葉を御言葉通りに信じること。欺かれない者は幸いだ。負債はすでに完済しているのだ!大胆に信仰によって主張せよ!すべての病は癒された、と。

References   [ + ]

1. 宗教の偽りの十字架は、癒しを求める自分の願いを退け、神に犠牲を捧げよと迫る。繰り返すが、これは御子の十字架と犠牲を無効にすることであり、恐るべき罪である。偽りの十字架を負わされることなかれ!

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永谷 聡
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永谷 聡

ありがとうございます!Amen!!Jesus み言葉の真実を示して下さって!