フェイスは言葉-それはマター・実質・実体である

ヘブル語における”言葉(dabar)”はマター・実際・実質を意味する。それは単なるラベルではない。言葉が軽く扱われている現代、このことはサタンの策略そのものであると指摘する。ヴィットゲンシュタインは「言葉は世界の映像である」と言った。が、聖書では言葉は実質であると言う。神が言葉を発すると世界は創造されたのだ。

アインシュタインは言った、人間が想像することは必ず実現すると。聖書も人が思い計ることは妨げられないという(Gen 11:6)。マインドの想念は言葉となり、言葉には創造のパワーがある。

語り出された言葉、レーマはフェイスそのもの。フェイスとは使徒信条の告白や懸命に努力して、信じます、信じます、とやることではない。神の声を聞いたら、それが即フェイス。内なる霊に共鳴する神の霊のバイブレーションが魂のマインドにおいて言語化あるいは映像化される。すると心にそれが焼き付けられる。その時点で、体に症状があろうと、目の前にまだカネがなかろうと、問題がそのままであろうと、すでに得たと分かる。すると不思議なほどに笑いがこみ上げるのだ。

繰り返すが、ちょうど宝くじの当選券を持っているようなもの。霊的領域のサブスタンスは真理(Truth)、この五感の世界の現象は事実(facts)。私たちは事実を取り扱うのではない。真理を、今、ここに、下ろすのだ。どうやって? 語ることによる。言葉にはリアリティーを作り出すパワーがある。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ。take dominion! ねじ伏せても事実を真理に従わせること。

神のバイブレーションに共振して私たちの口から語り出されたことばは神のことばそのもの。人なるイエスは同じメカニズムでわざをなされた。彼の語ったことばは父のロゴス、彼のわざは父のわざ。

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:10

ゆえに私たちもイエスと全く同じわざ、さらにそれ以上のわざをなし得るのだ。根拠は、イエスが父の元に行かれるから(John 14:12)。私たちが霊的に形成されているとか、難行苦行しているとか、素晴らしい人格を持っているとか、一切関係ない! それはイエスのあり方に基づくこと。この意味ですべてはスーパーナチュラル。しかもそれはフェイスに生きるわれわれにとってはナチュラル。癒しも奇跡も全ては当たり前のことなのだ。

鍵は、フェイスの覚醒。私たちは自分が「信仰」と思っていたことが実はフェイスではないことに気がつく時が来る。フェイスって何? この疑問に立ち至った人は、実は幸い。今、ここで、永遠のNOWが切り込んでくる経験。フェイス! WOW!

 

00votes
Article Rating

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x