神を語り出す=語り出された言葉は無益に帰らない

はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。-John 1:1-2

この言はロゴス。神を表現する存在、もちろん御子である。ヘブル書では神のサブスタンスの現出と言われる(Heb 1:3)。見えない霊なる神たる存在をこの物理的時空間において肉体をとおして表現された。肉体は完全なる人。しかしそのサブスタンスは神。が、このお方はあくまでも人として生きられた。人であるから聖霊を注がれ、神が共におられたので、あれだけのわざを成し得た(Acts 10:38)。

神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。-Acts 2:22

イエスとは御子が地上に人としているときの名前である。神は人を通してご自身を証される。

神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。この敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、”霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16

ここはよく、「キリストは肉において現れ」とあるがTRでは「神は」である。「敬虔の秘められた真理」とは奥義であり。Vincentはこう指摘する:

The mystery of godliness is the substance of piety = mystery of the faith (1Ti 3:9).

すなわち、神のサブスタンスがフェイスの法則によって肉において現出することである。これはキリストが初穂として模範を示された。エクレシアの原則もまったく同じ。われわれの肉を通して神は現れる(☞神をエミュレートする)。フェイスはいわゆる日本語で言うところの信心とか信仰とは違う。それは神が創造のわざをなさるときに用いられたパワー、そのフェイスを語り出すことによって万物が存在するに至った。マルコ11章22節を「神に対する信仰を持て」と訳する傾向があるが、これは神フェイス。ガラテヤ2章20節も「御子を信じる信仰」とされているが、御子フェイス。つまりそれぞれ

神のフェイスを持て。-Mark 11:22

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20

ゆえに

義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17

普通、人は目によって生きている。視覚から得られる情報に基づいて物事を判断し、意思決定し、行動を起こす。教習所で言われる、認知→判断→行動というパタンだ。つまり視覚はひとつのパワーであり、大脳は自動的に世界の映像を構成する。いつも言うが、色はもともと存在しない。存在するのは電磁波なる物理的サブスタンス。そのある波長の領域のみを目が知覚し、視覚野に色が生まれる。これをクオリアと言うわけだ。われわれが内的に構成している世界の像はほんのわずかな物理的サブスタンスを用いているに過ぎない。

霊から生まれた私たちはこのような肉体に備わる五感の他に、霊によるフェイスを第六感として獲得した。このフェイスは物理的時空間を超えて機能する。だから二千前のイエスの死と復活にわれわれも与れるのだ。これ自体がスーパーナチュラルであろう。はっきり言うが、スーパーナチュラルを認めない者はフェイスを知らないことを自ら証明しているのだ。聖書を五感で読んで、ある者は文学的に、ある者は道徳的に、ある者は人生論的に、ある者は歴史書的に、オツムによって理解しているに過ぎない。それはフェイスではない!

イエスは神の国を地上にもたらした。神の国を現すためには何が必要であるか?語ること!

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:18

語ることは神の言を解放すること。もちろん自分の主義思想などではない。神の言だ。イエスはうちなる父の言を語り出した。すると死者が生き返り、らい病が癒され、聾唖が語り出し、足萎えが歩いた。神の言を語り出すとき、その人の周りにはオーラが生まれる。それは霊のバイブレーションであり、そのオーラに包まれているならば、つねに神の国を運ぶことになる。

人はそれぞれオーラを醸している。自分の問題や体調に拘束されている人は固く、冷たい雰囲気を醸す。暗い考えや希望のない思いに囚われた人はどんよりとぼんやりして、暗い雰囲気に包まれている。オツムで何でも処理しようとする人は神の国に参加するのではなく、傍観者的に見ているだけだ。自分が当事者であることを知らない。

セレブレーションでも真に霊が温められて、霊を解放している人は温かく、満ち足りたオーラを醸し出す。自分だけが恵まれたいと切望する人はかえって満たされない。なぜ? 自分を捨てないからだ(Luke 9:22-23)。あくまでもすべての基準は自分の考えであったり、感情であったり、体の状態であったり、つねに自分が物差しとなっている。そのようなセルフのカプセルに閉じこもる人は神の霊をも排除してしまっている。だから神のわざを受けられないし、したがって変化しない。

声を上げることを私は強調しているが、声と霊は密接に関係している。たとえばあなたが旦那や子供をしかりつける時を考えてみてほしい。「あんたぁ!なにしてんのよぉ!!!」と心の底から怒りをぶつけるとき、あなたは怒りの霊を解き放っている。セレブではおとなしく、とても恥ずかしくて声を出せませんとか言いつつ、借りてきた猫のような状態であっても、家族に対しては自由に霊をぶつけているのだ! わかります、要点が? 人は心にあることを口が語る。家族の中では無防備に何気におれるゆえに霊を自由に発散しているのだ。しばしばそれは神の霊ではないのであるが・・・。

だから、逆を考えてみればよい。私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。そのマインドを発散するのだ。それが神の霊を解き放つこと。それは父なる神の言であるから、イエスがなされたと同じわざを成す。私たちが何かをするのではない。私たちの口を通して解き放されたれた父の言がわざをなすのだ。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。-Isa 55:11

私たちが神のロゴスを語り出すならば、それは神を語り出すことだ。なぜ?ロゴスは神だから!イエスがなされたことと同じ原則、メカニズムが働くのだ。ゆえにイエスは言われた

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12

神を語り出すこと。これが「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実際である。神はあなたの口を支配したいのだ。そのためにあなたが自分のメンツや恥ずかしさやためらいなどを破り捨て、声を上げる瞬間を待ち望まれている。あなたが神のわざを得られないのは、はっきりという、自分を裂いていないないからだ。

自分を安全な場所に置いたまま、「イエス様、憐れんでください、癒してください」といったところでそれは働かない。イエスは盲人に歩いてシロアムの池に行けと言われたのだ。ペテロも小舟から一歩を踏み出した。コンフォートゾーンを抜けよ。あなたはそのリスクを負うか?と主は問うておられる。すべてはあなたの応答次第なのだ!

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