クリスチャンの自由とは?-統治すること-
今週のメッセを少しばかり補強しておく。ちょうど再建主義の富井氏のこの論、基本的には同意だ。
クリスチャンの自由について
1.
自衛隊はネガティブリストではなく、ポジティブリストで動く。
ネガティブリストとは「○○をしてはならない。それ以外は自由」という規則。
ポジティブリストとは「○○をしてもよい。それ以外は禁止」という規則。
基本、軍隊はネガティブリストでなければ機能しない。
なぜならば、戦場では無数の事例が発生するからである。
いちいちポジティブリストを参照し「これはやっていいことのリストに入っているか」検討しながら戦争などできない。
ネガティブリストは、禁止事項だけを決めて、あとは自由にする、「大人向けの規則」であり、ポジティブリストはその逆で「子供向けの規則」である。
誰でも子供の頃は家の中で両親の支配下にいる。
一つ一つの行動に許可とストップがかかる。
ポジティブリストの世界である。
しかし、大人になって独立すると、最低限してはならないこと以外のことは、自分の判断で自由に振る舞えるようになる。
ネガティブリストの世界である。
禁止命令は一見すると不自由で専制的な印象を受けるが、実際のところ、人に自由を与えるのである。
聖書律法は、ネガティブリストの集合である。
ポジティブな戒めは「心と思いと精神を尽くして神を愛し、隣人を自分のごとく愛しなさい」など少数である。
ほとんどは「偽証してはならない。殺してはならない。姦淫してはならない。貪ってはならない。」などのネガティブな戒めである。
だから、聖書律法は、神がわれわれを大人として扱っておられる証拠である。
2.
ネガティブリストは自由な社会を作り、ポジティブリストは不自由な社会を作る。
コンビニの中で商品を持って歩き回っても窃盗罪にならない。それを会計を済まさないままに持ち出すと罪になる。
「会計を済まさないままに持ち出す」「商品を店内で消費するまたは毀損する」以外のことは原則として自由である。
たとえポケットや鞄の中に入れたとしても、会計時にそこから取り出せば、罪にならない。
これと同じように、日本の体制はネガティブリストに基づいているので、禁止事項以外、原則何をやっても自由である。
交通法規を守っていれば、夜中でも運転ができ、国内ならどこにでも車で行ける。
北朝鮮やソ連のような共産主義国は、ポジティブリストの国である。
国民は共産主義を信じ、そのために粉骨砕身し、その指導者を賛美し、服従しなければならない。
このポジティブな命令があると、自由に行動できない。
スターリンの演説への拍手を最初に止めると疑われるので、他の人がいつ拍手を止めるかビクビクしながら見守る。
へたなところで写真を撮れば、逮捕されることもある。
指導者や共産主義思想を非難すると、反革命の烙印を押されてKGBに逮捕され、収容所で強制労働させられる。
常に密告を恐れながら生活せざるを得ない。
3.
クリスチャンは、イエスによって自由を与えられたのである。
聖書の戒め以外は、基本、自由である。
もちろん、国や地方自治体が定めた規則にも従うが、それらの規則以外、自由である。
教会や他のクリスチャンは、自分が明確な罪を犯さない限り、自分を裁けない。
裁判では、告訴する人は、はっきりとした証拠を提示できなければならない。
もし印象とか評判だけで人を裁けるようになったら、ポジティブリストの世界になる。
人の目を過剰に恐れながら生活することになる。
クリスチャンになってからも「教会に黒以外の色の服を着ていくと不信仰に見られる」といった類いの人間の規則に縛られているならば、「何のために救われたの?」と聞きたくなる。
クリスチャンはこういった慣習やら評判やら勝手に作った戒めによる人からの裁きを一切受ける必要はない。
もちろん、地域性やら集団の特殊性を考慮して作られた規則には従うべきだ。
しかし、聖書のどこにも禁止されていない食べ物を禁止するなどの、無意味な規則に縛られる必要はない。
ニッポンキリスト教徒は彼の言うポジティブリストを追求しているわけ。どれをすべきか、何が神の御心か、何をすれば神に良しとされるか・・・。これがクルシチャンである。
が、ここでひとつ指摘しておくと、私と富井氏の違いは律法の扱いにある。聖書は明確に、旧約のレビ系の祭司制度による石の律法には人を完成する力はなかったので廃止された、と述べている(☞祭司制と律法について)。
その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―律法が何一つ完全なものにしなかったからです―しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。-ヘブル7:18-19
律法の致命的欠点は神の標準を生きるためのいのち(Zoe)を与えることがなかったのだ。
とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。-Gal 3:21
律法はいのちの実体であるジーザスが来られるまでの養育係だったが、今やその方が来られたのでわれわれはその下にはいない(Gal 3:24-25)。かくしてキリストの到来により祭司制度がレビ系からメルキゼデク系に変更され、律法も替えられた。つまり石の律法は廃止され[1] … Continue reading、代わって導入されたのがいのちの御霊の法則である。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪のために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り[2]単数形の罪(Sin)と複数形の罪々(sins)の区別が重要となる。これはすでに何度も指摘しているところである☞罪(Sin),古い人(Old … Continue reading、その肉において罪を罪として処断されたのです[3]これは罪(Sin)を取り除くことではない。罪を主人の座から引き下ろすこと。そのために罪を知らない方が罪とされた(2Cor … Continue reading。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。-Rom 8:2-4
たとえて言えば、かつてはPCのOSと言えば使うのにかなり知識を擁するMS-DOSだったが、95年に知識がなくてもマウスクリックで何でもできるWindowsに代わった。大切なのはMS-DOS自体は廃止されたが、Windowsにはカーネル(核)としてMS-DOSが含まれているのだ。つまりその上位互換バージョンのWindowsを使う時には無意識にMS-DOSをも使っていることになる。これと同じようにして、いのちの御霊の法則に従うならば律法の要求をも満たすのである。だから富井氏が批判するようにディスペンセイション主義は無律法を主張しているのではないのだ。少なくとも私の場合はそうである。
そこで現経綸においては明確に禁じられているのは、偶像礼拝、不品行、生血を飲むこと、絞め殺した物を食べることである(Acts 15:20)。それ以外についてはパウロはこう言っている:
すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。-1Cor 6:12
われわれはむしろ、すべてのものを支配するのだ。カネについても同じ。「クリスチャンはきよく・まずしく・ただしく生きるべきだ」とする宗教としてのキリスト教は間違っている。カネは大いにゲットするべきである。主は言われた、神とカネに兼ね仕えることはできないと(Matt 6:24)。われわれはカネには仕えるのではない、支配するのだ!
一般的に言えば、自分が恐れる対象とは自分が制御できないと思われるもの。自分が制御できると思っているものには恐れを覚えない。だから人はカネを自分の自由にできる状態を作りたいのだ。が、これは罠になる。10万の人は100万あれば安心できると思うが、100万持っている人は1,000万あれば・・・と果てしなくなる。これは元々カネに支配されている兆候だ。ゆえに恐れからの解放は支配すること! かくして
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」-Gen 1:28
最初の人アダムが失ったこの統治権を第二の人キリストは回復してくださったのだ[4] … Continue reading。自分が得たものに覚醒し(☞iPAIの覚醒)
統治せよ!
References
↑1 | キリストは律法を廃止するためではなく成就するために来られたのだが、その結果の効力をわれわれにインヒュージョンして下さった(☞律法とクリスチャンについて)。 |
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↑2 | 単数形の罪(Sin)と複数形の罪々(sins)の区別が重要となる。これはすでに何度も指摘しているところである☞罪(Sin),古い人(Old Man),肉(Flesh),そして十字架。 |
↑3 | これは罪(Sin)を取り除くことではない。罪を主人の座から引き下ろすこと。そのために罪を知らない方が罪とされた(2Cor 5:21)。あの十字架においてはキリストが犠牲の供え物の実体として御父に捧げられたと当時に、その聖なる体において罪が処罰されたのだ。 |
↑4 | アダムはエデンの園でIPPAを失った。Identity(アイデンティティ)-Protection(保護)-Provision(供給)-Assignment(委託)だ。これをキリストは死と復活により再度ゲットして下さり、キリストとと一体とされるものはその効力に与ることができるのだ。 |
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