フェイスと医学-それらは対立するものなのか?

最近のDr.Lukeは医学博士のくせして医学を否定するのか、とのお声があるようだ。どうもこの癒しの問題については、こういったエキセントリックな反応が出る傾向がある。私は今回の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも書いている。フェイスと医学は対立するものではないと。医学はだれもがその恩恵にあずかれる一般恩恵。フェイスは特別恩恵であると。神による直接的癒しのフェイスがないのであれば、いくらでも医学の恩恵に与ればよろしい。

・・・と、言うと、またキリスト教徒のプライドを刺激するのだ。「あなたは私に信仰がないというのか!」と。そのとおり。ない。だから癒されない。考えても見よ、フェイスがあってなお癒されなかったらもはや絶望であろう。ないから癒されないのであれば、希望があるのだ。フェイスを得ればよいのだ。素直に医学的治療を受ければよろしい。別にそれは罪でも何でもない。一般恩恵であると何度も繰り返している。ただし、カネと時間と労力、時には苦痛を代価として求められるが・・・。

どうも、「信仰」という概念の罠に落ちている。<医者にかかる=不信仰=罪>と自分で勝手に考えているようなのだ。ローマ書14章をよくよく読んで欲しい。

しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

パウロは明確に言っている、何を食べても良いと。しかし、疑いながら食べれば罪だと。Are you with me? あなた自身が<医者にかかる=不信仰=罪>と考えているから、医者にかかることが良心の咎めとなるのだ。パウロも私もなんら咎めていない! しばしばこういった主張をする人々は自分の”信仰”にプライドがあるのだ。癒しのフェイスがないことを認められない。そして自分の”ものさし”で自分を裁いている。要するに、鏡を見て、憤っているのだ(☞鏡像原理)。

繰り返すが、フェイスは条件ではない。フェイスは願うサブスタンス、目に見えないことの立証(Heb 11:1)。癒しそのものである。それは自分から絞り出すものでもない。「自分の何か」と勘違いているゆえに、ないと言われると憤慨する。フェイスは生来の私たちにはもとよりない。それはシックスセンス、外来的に聖霊により与えられるもの。自分にはないことを認め、単純に求めればよい。求める者にヘビやサソリを与える親があろうか、と父なる神は言われるのだ。その意味で、求めないから与えられないのだ(James 4:2)。プライドのゆえに・・・。

私は癒しのフェイスはまったくなかった。だから親しい友人を何人もガンで失った。癒しに関してはプライドも持ちようがなかった。だから求めた。すると与えられた。単純だ。現代において癒しがあるかないか、すべての人が癒されるのか、病気は神が人格の陶冶のために送られるのか・・・(☞パウロの肉のトゲとは-不信仰のパン種に注意-[1] … Continue reading。そんな面倒なことを考える合間に、求めよ! だれだって癒されたいであろう。健康でいたいであろう。長生きしたいであろう。フェイスは願うのサブスタンス、目に見えないその立証なのだから。あなたは病気を願うのか? 本心は何を願うのか? まことに神の国は幼子のものである!

追記:これもある種の人々を刺激するであろうが、あえて。要するに二心(正確には魂が分裂している状態)だから与えられないのだ(James 1:6-8)。

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1 もし神が人格を練るために病気を送ったとしたら、医学によって治療を受けることは神の御心に反することになろう? それを当たり前にしているのがもっともらしく敬虔に信仰深く振る舞う人々なのだ。

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