エクレシアはキリストの充満かつ増殖である

フェイスとは願うサブスタンス、目に見えないものを現出すること(Heb 11:1)。日本語で”信仰”とするから、トンデモ勘違いが起きる。”信じて仰いだ”のに癒されない、なぜだ! とか。あるいは癒されないのは信仰がないとでも言うのか! とか開き直る。これらの訴えが肉のものであり、ゆえに神に敵対してしまうのだ(Rom 8:7)。

フェイスはシックスセンス、スーパーナチュラルなパワー。それはサブスタンス、実体、土台、権利証そのものなのだ。信じれば癒されるとマインドに刷り込まれている人々はしばしば失望を味わう。フェイスは癒しの条件ではない! 癒しのサブスタンス、実体そのものなのだ。癒されないのはフェイスがないから。なぜ? フェイス=癒しだから。

神のバイブレーション(弦)は宇宙に満ち、神の言葉(ミレア)は全地に響いている(Ps 19:4)。現代物理学でも宇宙は11次元の超弦のバイブレーションであると説く。神は語り、自らの言葉(レーマ)により万物を生じた(Heb 11:3)。語り出された言葉はバイブレーションである。そして今もなお言葉(レーマ)によって宇宙を支えている(Heb 1:3)。すべてのものの実体は言葉なのだ!

神はロゴスを語り出された。それが肉体を取って実体化した存在がジーザス。そのジーザスも内なる父の言葉を語り出してみわざをなされた。自分では何もできないと証言しつつ。われわれも同じ。内なる父の言葉を語り出すこと。それは内なる霊のバイブレーションを言語化することだ。フェイスはレーマを聴くことによる(Rom 10:17)。フェイスは願うサブスタンス、ゆえにレーマを受けることは即サブスタンスを得ること。ヘブル語の「言葉」はDabar、それは実質・実体・マターの意味。それは癒しそのものなのだ。

神の言(ロゴス)であるイエス自身が神のサブスタンスの現出であった(Heb 1:3)。物理的肉体を持たれた存在として。グノーシスの言う仮現論ではない。見て、手で触れる存在。tangible、具体的なのだ! 霊である神のロゴスがこの物理的時空間に現出すること。これはまさにフェイス。フォースの覚醒ではなく、フェイスの覚醒。それは日本語の信仰ではない! そしてフェイスを使え! それは霊的領域のサブスタンスをこの五感の領域に現出させるパワーである。

万物は神のフェイスによって創造された。神は無から有を呼び出すお方(Rom 4:17)。われわれも同じパワーを有している。イエスは言われた、信じる(フェイスを得る)者はわたしと同じわざをなし、さらに大いなるわざをする。わたしが父のもとに行くからだ(John 14:12)。無いものがあるようになる! クリエイティブ・ミラクルだ。私の難聴の癒しも医学的に考えてみると、蝸牛の中の繊毛が再生したからだ。WOW!!!

聖書の真理は日本語で考えてはならない。それはニッポンキリスト教を生む。例えば、敬虔なる言葉。原語はeusebeia。あなたは敬虔と聞いて何をイメージするだろうか。これは人それぞれで違う。が、聖書は聖書で定義する。敬虔とは1テモテ3:16が定義している。

敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、・・・1Tim 3:16

神が肉において現れることだ(☞神をエミュレートする-God-OS)。ジーザスはこれを初穂としてデモンストレーションされた。いわゆる正統キリスト教神学はこれをキリスト固有の現象であると言うであろう。が、これはわれわれにおいても再現されるのだ。なぜ? ジーザスは私たちを兄弟と呼ばれる(Heb 2:11)。兄弟、すなわち同じDNAを共有する者だ。独り子であった御子は今や増殖している[1]一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶのだ。しかも麦がまかれて米ができることはない! 麦から出るものは麦である。。かくしてジーザスと同じわざをわれわれもできると言われる(John 14:12)。私たちを通して神が生き出て下さるのだ。ゆえにパウロはこう証しする:

しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共に働く神の恵みである。-1Cor 15:10

マインドを新たにせよ!(Rom 12:1-2)マトリックスから解かれよ! ピスティス、フェイスとは信。信とは実体でありその立証。内なる神の霊のバイブレーションに共鳴せよ。そして語り出せ。それは現出する。神はエクレシアを通してご自身の知恵と力を証しされるのだ(Eph 3:10)。そのエクレシアとはキリストの充満(プレローマ、Eph 1:23)[2] … Continue reading。このようにしてわれわれを通し、地において天の御心がなる。創世記の「地を従わせよ」が成就する。Take Dominion! 支配せよ! 天が地に下るのだ! 究極的に完成されたエクレシアである立方体の新エルサレムは小羊との結婚のため地に降りてくるのだ。

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1 一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶのだ。しかも麦がまかれて米ができることはない! 麦から出るものは麦である。
2 <エクレシア=キリスト教会=宗教団体・法人>というマトリックスからはとんでもない異端となるであろう。が、これが御言葉そのものの啓示なのだ。

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