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セレブは宗教儀式ではなく賛美の生贄を捧げる場

英国Kingdom FaithのCampファイナル

 今回のメッセで語ったが、マインドは自分のうちに限局するものではない。ある広がりを持つ場を作るのだ(☞マインドの場)。さらに霊と魂が相互作用していわゆるオーラを醸す(☞霊と魂の場)。これが人の雰囲気や印象となる。正しい教えをしていてもどこか違和感があったり、病んでいる雰囲気を醸す者は要注意である。正しさは偽装できるが健やかさは決してできない。サタンは光の天使にマスカレードするが(2Cor 11:14)、決して赤ちゃんのような無垢なオーラを醸すことはできない。

不思議なものでセレブにいる人々が何を思っているか、実はメッセージをしている側は手に取るように分かる。自分の想念は自分だけが知ること、と思うと実はこれが違う。想念は個人の大脳に浮遊しているだけではない。霊の領域においてそれは漂い、また人の霊に反映するのだ。だから霊の領域を見ることができる人にはすべてが見える。マインドと霊は相互作用してサブスタンスを作るのだ

イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」-Mark 2:8

私たちのセレブはかなり濃厚である。4時間近く、メッセージも2時間近く。時に温泉に長く浸かったときのように湯あたりする人もいる(各自参加時間などは調整してください)。宗教体質から霊的体質に変わるにつれ、それは爽快になる。かくしてセレブにおいてはすべての人が口を開くことを奨励している。つまり霊的領域にすべての人が自らの意志を用いて参加すること。ところがこれがある種の人々には躓きとなるらしい。

いわく静かに礼拝したい。ならばニッポンキ業界のいわゆる葬式並みに静かな日曜礼拝に行ったら? 声を出すことは苦痛だ。はあ、旦那や子供に怒るときは大声出すでしょう? ・・・

嗚呼、愚かなものだ。観てるだけのヤツはバカ。宴会に来て、ごちそうが山ほど提供されているのに、自分は見てるだけ。ルークさんが食べているのをアーメンしているから、それで十分だと誰が言うであろうか? いや、別に自分で手を出して食べたくない人はそれでけっこう。ご勝手にどうぞ。祈りも同じ。祈ることが苦痛だとか、何をどう祈ってよいのか分からないとか、口を開けと言われるとプレッシャーとか感じる人は、他に行けばよろしい。チンマリとお勤めするだけのいわゆる礼拝はいくらでもある。

はっきりと言うが、不平や不満の想念を抱く人、あるいは兄弟姉妹を利用して商売しようとする人はその場を汚している。口に出さずともそれは霊の領域にはすべて反映しているからだ。苦い根をそのままにしておけば、周りを汚す(Heb 12:15)。悪い交わりは良い習慣を損なうのだ(1Cor 15:33)。

矢沢のライブに参加したら、みなが「永ちゃん!永ちゃん!永ちゃん!」と盛り上がる。その場で下向いて、「何だ、この人たちは?」とか思う人はそもそも来るべきではないでしょう? セレブも同じ。「ジーザス!ジーザス!ジーザス!」と盛り上がるのだ。

おいおい、礼拝を矢沢のライブといっしょにするとはけしからん、とか言われる宗教の徒もいるであろう。自分は静かに礼拝したいとか、下向いて黙想していたいとか思う人は、はっきりと言うが来るところを間違っている。ついでに言えば、ダビデの裸踊りを冷ややかに見下したミカルは不妊の女となった。新しいいのちを生めなくなったのだ。

繰り返すが、私たちはニッポンキリスト教の儀式を行っているのではない。ジーザスのライブに参加しているのだ。あるいはジーザスのパーティーである。ジーザスの復活の勝利を祝うのだ。セレブレーションとは祝賀会であり、凱旋記念日だ。祝え、叫べ、食べよ! 宗教からエクソダスせよ! 神の国は激しく襲われているのだから!

わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。
ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。
角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。-Ps 81:1-3

われわれは賛美の生贄を捧げるのである!(Ps 27:6;Heb 13:15)

 

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