ニュークリーチャーはエロヒム属である―ヘブル語の回路に入ること

私は、日本語で聖書の真理を考えるな、それはニッポンキリスト教を生み出すだけだ。言語自体がマトリックスであり、霊的真理をそのマトリックスの回路に乗せて考えてはならない、と常々言ってきている。その最たる例が神の名前である。いわゆる「神」とか”God”とか、最近では「創造主」とかするむきもあるが、同じ罠に陥っている。

In the beginning God created the heaven and the earth.

もちろん創世記1章1節だ。これはKJVだが、このように英語に置き換えた時に、すでに真理は削られている。神はヘブル語の言語体系の中に霊的真理を啓示された。これをHebraic Roots Bibleを見るとこうある―

In the beginning Elohim created the heavens and the earth;

英語では”God”とされている単語は”Elohim”、それは複数形。メッセでも語ったが、通常、この複数形は父・子・聖霊の三位格を含意しているとする。現に動詞は単数形で受けている。ところがこの”Elohim”はあちこちに散見するのだ。通常、”gods”とか「神々」と訳され、それは人間が生み出した偶像の神々であるとする。ところがだ、詩編にこうある― 

[A Psalm of Asaph.] Elohim stands in the company of the Almighty El; He judges in the midst of Elohim.
Until when will you judge unjustly, and lift up the faces of the wicked? Selah.
Vindicate the poor and fatherless; do justice to the afflicted and needy.
Deliver the poor and needy; and save out of the hand of the wicked.
They neither know nor will understand; they walk in darkness; all the foundations of the earth are shaken.
I have said, You are Elohim, and all of you are sons of the Most High.
But you shall die as men, and fall like one of the rulers.
Rise, O Elohim, judge the earth; for You shall inherit in all the nations.―Ps 82:1-8(HRB)

人間が作り出した偶像の神々ならば、何故会議など開くのだ? 直訳すると―

エロヒムは最も高きエル(単数形)の会議において立ち、エロヒムの間で裁きを行われる(1節)。

わたしは言う、あなたがたはエロヒムだ。最も高き方の息子たちである。しかし、あなたがたは人として死ぬ。支配たちのひとりのように落ちる。起きよ、おお、エロヒム、地を裁け。なぜなら、あなたがたは国々を受け継ぐのだから(6-8節)

この部分を受けて主イエスはこう言われる―

イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) –John 10:34-35

と言われ、ましてやご自分が神の子であることを論証している。

さて、ここで問題は、私たちは人ではないか、なぜ神になれるのだ? よく「神化(Theosis)の教理」と呼ばれ、東方教会では普通に信じられている。西方ではいわゆる「聖化」だ。このときに、「人が神になる?」と考える人のマインドには<神=God>なる等式があるのだ。しかも、その<God=父・子・聖霊の三位格にいまして本質においてはひとりの神>とのマトリックスができている。ゆえに、「あり得ない!」となるわけ・・・。前に私がウィットネス・リーと同じことを言い出したとコメント欄に書かれた方がいるが、リーは神性と人性を混ぜ合わせて、神格は持たないいのちと性質において神になると言うのだ。まったく違うと言っておく。彼の”mingling(混ぜ合わせ)”の教理はナンセンスである(こちらを参照)。

さて、ここでカギになるのは、ジーザスは自分を「わたしはある(エゴ・エイミー)」と言われた(John 8:58;18:6)。この箇所は日本語訳では間の抜けた表現になっているが、ジーザスは「I-AM」と言われたのだ。つまりYHWH! モーセにご自分の名を明かされたとき、主は「わたしはありてある者」と言われた。これが最も高きエロヒムであるYHWHなるお方だ。ポイントがお分かりか? 創造主なるお方(いわゆる三位一体の神/God)はエロヒムであり、いろいろおるエロヒムの中の最も高きお方、その御名がYHWHである!

HRBの詩編82章の注にはこうある―

1節について―

A clear description showing the plurality of the Elohim family and Yahweh judging in the heavenly court.

6節について―

It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh 10:34, Rom 8:14-17.

一応訳しておくと―

罪々を赦され、ファミリーネイムYHWHの中にバプテスマされ、エルダーによりルアハ・ハ・コデシュ(聖霊)を受けるために手を置かれ、エロヒムの文字通りの子とされた人類の素晴らしい可能性である。

これが私たちがエロヒムである、と私が言う意味である。が、「私たちはYHWHである」とは言っていないことに注意してほしい! ヘブル語の回路に入るのだ。「私は神(God)である」と英語や日本語のマトリックスの中で考える人にとっては、トンデモ発言になろうが、それはその人のマインドのマトリックスを顕わにしているに過ぎない。勝手にオツムが空転加熱化するだけである。

私は前々から、私たちの霊は神の霊から生まれ、神のDNAを得ており、それは神聖な存在であり、神属(族)であると言ってきた(☞神属人類の誕生)。まことにこの理解はヘブル語の原典に忠実であったことがHRBやDr.Heiserの著書により、今回、証明されたのだ。これまでの白いキリスト教神学、特にニッポンキリスト教のマインド・マトリックスを大きく逸脱する言説とは思うが、彼らが聖書から外れているに過ぎない。

私たちはすでに完全であり、神聖な存在神属人類であり、ニュークリーチャー新生命体なのだ! それは神をエミュレートする。神のわざは天地創世の時にすでに完成されており(Heb 4:3)、十字架もすでに終わっていたのだ(Rev 13:8)[1]ここの邦訳は不正確。「天地創世の時からほふられた小羊」とすべきである。。それが時系列の中に現れたのがあの二千年前の十字架である。まったく新しい種であるから、これまでのマインドのフレームをはるかに逸脱する。ゆえに古いフレームから判断することなかれ。それは神の言葉を裁くことになるから。

and to the congregation of the first-born, who are enrolled in heaven and to YAHWEH the judge of all; and to the spirits of the just, who are perfected;-Heb 12:23(HRB)

詩編82編にはエロヒムの会議が描写されていた。そこでは最も高き方(比較表現があること自体が他にエロヒムが存在することを意味するのだ)が裁定を行っている。そしてここのヘブル書においては私たちが得た(完了形!ここも邦語は誤訳)のは、

シオンの山、生ける神(エロヒム)の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神(YHWH)、全うされた義人の霊

なのだ。これもエロヒムの会議である! 私たちのいのち(Zoe)はキリストと共に神のうちに隠されている(Col 3:3)。考えて見よ。なぜ不完全な汚れた地的な存在が神のうちに隠されることがあろうか。血肉は神の国には入れない。なおさら、神のうちにあり得るはずがない! 私たちの本質は霊であり、それはYHWHなる家名を持つ神(Elohim)なのだ。われわれ神の霊から生まれた存在は神属人類、エロヒムである! WOW!!!

神の敵、サタンはこのことが開かれることを恐れ、また嫌悪する。ゆえに躍起になってこの真理を攻撃し、封印しようとするのだろう。このことに関して彼は歯ぎしりをする。なぜ? それは彼自身が神になりたかったからだ。ゆえにその嫉妬と妬みが燃えるのだ。確かにこれは挑発的でもある。果たしてあなたはこの真理にアーメンするであろうか、それとも異端・カルト思想として拒絶するであろうか?これによりそれぞれの内にある霊の本質が明らかにされ、その後の霊的歩みを決定するであろう。ルアハ・ハ・コデシュならばそれは大いなる喜びにして、興奮を覚えるはずである。

キリスト教神学などのマトリックスから解放されよ[2]ヘブル語のマトックスについてはたとえばこちらをどうぞ。。五感によって見ることなかれ、判断することなかれ。この体は罪を宿す旧創造、また魂はいろいろと欠けがある。極私的にはこれを五感のスーツと呼ぶが、至聖所の形である立方体で象徴される霊はパーフェクト! 聖書はそう言っている。そのパーフェクト性がこの肉において現れるのだ。もちろんフェイスによる!

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1 ここの邦訳は不正確。「天地創世の時からほふられた小羊」とすべきである。
2 ヘブル語のマトックスについてはたとえばこちらをどうぞ。

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