聖霊派の聖霊知らず-父と子と聖霊の関係は?
数年前、ベニー・ヒンが自分の聖霊論が誤りであると悔い改めたことはすでに書いている。私は『リバイバル新聞』に記事を書くことになって、それまでまったく無縁であったニッポンキリスト教と関わらされた。で、目が点になる経験をたくさんさせられた[1]実に、感謝なことであります。
そのひとつが、「聖霊様、聖霊様、聖霊様」とチャントしてる人たちの存在。これは実に意外というか、違和感を覚えた。私にとっては霊的経験はすべて「キリストにあって(In Christ)」であり、呼び求めるべき御名は「ジーザス」のみ[2]イエシュアとは「YHWHが救い」の意味だ。つまりその名を呼ぶことは三位一体のエロヒムを崇めることである。1コリント1:1-2(1Cor … Continue reading。ワーシップもただジーザスにフォーカスせよ、と英国のColin Urquhartに指導された。
ちなみに私たちがジーザスを褒めていることに対して、ニッポンキ業界のある人が「一人の人だけを崇めるのは危険だ」とおっしゃった人もいたくらいだ。やれやれ・・・。どうも、この「聖霊様」はチョウ・ヨンギ辺りにルーツがありそうだが、ある種の臭いを感じるのだ。キムチ臭というか・・・。
「天に父がいて、隣にジーザス、地上には聖霊様、すでにジーザスの時代は終わり、今は聖霊の時代とか」-これは三神論だとかねてより指摘している。聖霊はジーザスの言葉とわざを証する霊、ジーザスは父のうちにおり、父はジーザスのうちにおり、聖霊により父と子が私たちのうちに住まわれる[3]これを神学用語ではぺリコレーシスと呼ぶらしい。。ジーザスは父をエミュレートし、聖霊はジーザスをエミュレートする。聖霊はジーザスのメモリーを私たちのうちに実体化してくださる(☞聖霊のメモリー)。わたしたちはアダムにあった自分のメモリーによってアイデンティティーを確立するのではなく、新創造として聖霊によるジーザスのメモリーによって生きるのだ。この辺はアンドリュー・マーレーが『キリストの御霊』で説いているが、最近の業界出版界の劣化現象により(それは読者のレベルの反映であるが)、絶版らしい。
当時、『リバ新』に掲載した私の記事に対して、編集部にえらい剣幕で抗議の電話が来たり、一部で不買運動が起きたりもした。彼らは聖霊を知っているとのプライドがものすごい。だから私ごときに言われる筋合いはないのだろう。が、その反応がすでに何かを証明しているわけ。かくして私は論説委員を下ろされ、私の著書『真理はあなたを自由にする』は絶版となった。この本は聖霊派には実に不評であったようだ。
当時から私は「聖霊様」がおかしいと指摘していたが、ようやくベニー・ヒンが悔い改め、業界の空気も変わることを期待していたが、どうも相も変わらずの模様だ。これもなんとも情けないことだが、そもそも自分で聖書をキチンと読んでくださいな・・・。
かくして「聖霊様チャント」を唱えているうちにおかしな霊を招き寄せ、どうみても野鳥の羽であろう「天使の羽」とかで舞い上がる向きもあるわけ。せめてキチンと出るところに出て鑑定してくださいな。舞い散る「金粉」とかもね・・・。それから証ししましょう。そうでないと、神の栄光どころか、主の御名を貶めることになるでしょう。世の人はもっと冷静ですから!
追記:この機会に-私はいろいろな雑誌や新聞に記事を書いたりしておりますが、ニッポンキリスト教のいかなる教団・教派・組織・学校・メディア、さらにナントカ派やカントカ主義とは一切関わりがありません。あちこちの先生たちに義理もなければ、気を遣う必要もありません。よって言いたいことは言わせていただくのスタンスであります。そこんとこ、ヨロシク
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