神をブロマイド化する罠に落ちるな

クリスチャンの間でよく行われるいわゆる証詞。これがしばしば罠になる。いわく、神はこれこれの方法で、私があれこれの時にこうしてくださった。このテーマはこうこうで、これこれだ・・・。概念操作によりひねくり出された神学なども同じ。こうして神を2D化してしまうのだ。

かつてここで紹介したウォッチマン・ニーの黙想にもあったが、救いの時、これこれの御言葉であれこれの経験をした、云々。これが罠になると。ただ一回性の神と御言葉との邂逅を写真のように現像して固定化してしまうのだ。そして他者はその印画紙の像を見て、神を知ったツモリになる。ちょうどアイドルのブロマイドのようなものだ。

私がニーを評価している理由は、人間の成り立ちや霊と魂の関わりなど、ちょうど霊的な解剖学や生理学を提示しているだけであり、その後は自分で経験せよとのスタンスゆえだ。彼が経験した神を人に提示することはほとんどない。まして後半の20年は幽閉されており、いかなる神との関係を得ていたかはまったく不明。神と彼の間のみで共有されているだけ(☞永遠の励まし)。

この意味で私は御言葉の解き明かしとか霊的意味の解説などに対しては、最近は特に懐疑的になっている。それはブロマイドを人に売るようなもの。そのブロマイドを見て、本人を知ったツモリになる罠があるのだ。もちろん、われわれは限られているから、個人で神のすべてを知ることはできない。が、神がどのような方であるか、それを味わい、経験するのは、あくまでも個人の問題である。私たちは神の前の単独者であるべきだ[1] … Continue reading

自分が知っている神はブロマイドのそれか、直接のそれか。キルケゴールが言う客観的神の存在証明に過ぎないのか、それとも主体的真理であるのか。われわれは絶えず自問自答する必要があろう。ブロマイドを100枚持つよりも、神の目をひと目でも直接見ることの方が重大なのだ。神は私に対してこの物理的時空間に直接に介入されるお方。それ自体がスーパーナチュラルな現象なのだ。

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1 キルケゴールは「実存」の三つの段階を経て、人生が深まっていくと考えた。
・美的実存の段階-人は欲望のままに刹那的快楽を求めて毎日を送る。しかしそのような毎日の繰り返しに空しさと退屈さを感じていきづまる。
・倫理的実存の段階-社会や家庭で倫理的義務を果たそうとつとめるが、誠実に努力すればするほど、みずからの道徳的な不完全さや良心の責めを思い知らされる。
・宗教的実存の段階-自分の無力さや罪深さに絶望しながら、ただ一人で神の前に立つ単独者となる。人が絶望するのは、自分をこの世に存在させた根拠である神との結びつきを失い、本来の自己から逃れ、人生の足場を見失ってさまようからである。(極私的には霊的実存と訳したいところ)
・本来の実存-苦悩の果てに神との出会いを決意し、単独者として無限なる神と真剣に向き合う信仰の中にある。信仰もまた、おのれが決断する主体的真理であり、もし神の存在が客観的に証明されるならばそこには信仰はないとする。

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