フェイスとは一回性の美学-マインドの慣性に注意せよ-

は神のレーマを聞くこと(Rom 10:17)、神のレーマには不可能はない(原語、Luke 1:37)。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。あえて言えば、フェイスとは一回性の美学だ。

その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、「岩に命じよ」という神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか、あるいは命じて水が出ると信じなかったのか[1]頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。

理由は、以前の岩を打つと水が出た奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ[2] … Continue reading。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!? そんなのは古代の夢物語だろうとか。

マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20

あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。

肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7

自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに収めることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。

この言葉(ロゴス)は真実であり、そのまま受け入れるに値します。-1Tim 4:9

聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16

神の霊感とは”theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)”。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know ! しかもそれはしばしば私のマインドの枠を超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか? これまでのマインドのパラダイムから外れているから。

かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。あなたの街のお気軽な教会、いつでもいらしてください的な世に媚びる姿勢を悔い改めよ! 神のなされることはすべて世に対するチャレンジである!

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1 頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。
2 ニッポンキリスト教の諸々の習慣や伝統などはその最たるものであろう。明らかに聖書に反することであるにもかかわらず、立ち止まることなく、延々と同じことを繰り返すのだ。

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