臨在の意味=御顔と眼差し=

よく聖霊派辺りで言われる「主のご臨在」。彼らにとってそれは何を意味するのだろう。聖霊様の油注ぎ~、聖霊様の充満~、そしてタテノリガチャガチャ音楽で踊り、叫ぶこと。金粉が舞ったりや金歯が生えたり、天使の羽が降って来たり・・・。これがソレであろうか?

ヤコブはヤボクの渡しで神(YHWH)と格闘した(Gen 32:25-32)。神は彼の自前の力の源である腿の番を打った。それでもヤコブは祝福を求めると、神はそれに応えた。ヤコブは神の顔を見たのに生きていると言って、その場をペニエルと呼んだ[1]このゆえに自分の最も自信のある部分を神のタッチ受けて砕かれる経験をペニエルの経験と称する。。ぺ二ーとは顔、エルは神、すなわち「神の顔」だ。同時に名前をイスラエル[2]“he will rule as God”の意。転じて神のプリンス。と変えられる。その経験の後、ヤコブはそれまでの独立自存の彼ではなく、ビッコを引く者とされた。ついに晩年の彼は杖に寄りかかりつつ神を礼拝した(Heb 11:21)。この姿をウォッチマン・ニーは「一服の美しい絵を見るようだ」と評している。

旧約聖書の中で神の臨在(presence)と訳されているヘブル語は”paniym”、その意味は「顔」なのだ。そのまま”face”と訳されている個所も多い。ダビデは常に御顔を常に求めている。そして神の霊に包まれることと御顔を向けられることを同義としている。

どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。-Ps 139:7

2014年12月のあの経験で見たこと・聞いたことは幻覚なのか妄想なのか。とにかく私はその後右足がマヒして、2週間ほどビッコを引いていた。ボディにはかなりの自信があった私だが、ある意味その自信は打ち砕かれた。もうジョッグもできず、GYMにも行けず、一生このままか・・・と、自分の弱さに直面し、自己のコントロールがまったく効かない状況に置かれた(→自己における死について)。が、その中で、自分が何もなし得ない状態にあって、中等度難聴の右耳の癒しと右足のマヒの癒しを続けて経験した。

さらに神が手で感じられるようになった(Php 4:5)。外界の景色を見ても、神の臨在、つまり御顔を感じるのだ。常に御顔を前においている感覚。モーセは神と顔と顔を合わせた者とされたが(Exo 34:29-34)、クリスチャンもその特権、否、それ以上の栄光に与れるのだ(2Cor 3:16-18)。もちろんイエスの血のゆえに。加えて臨在(presence)と訳されているもうひとつのヘブル語は”ayin”、原意は「目」だ。つまり臨在とは神の顔であり、神の目が置かれる状況(Deut 11:12)、栄光とはすでに述べたとおり、重さの意。それらに与ることができるのがクリスチャン、なんと幸いなこと。

かくして私たちはキリストのうちにおいて、神の霊のおくるみの中に生きている。つねに神の聖にして、安らかな、そして新鮮な霊の息吹の中で文字通り呼吸をしている。これが祈りである。意識して言語化することも勿論あるが、言語化されずともわれわれの絶えず霊は祈っている。肉体の呼吸は常に無意識に行われているが、時に意識して深呼吸するのと同様である。まことに霊が開かれると、霊的ディメンジョンにタッチすることが可能となり、その領域にあるあらゆる豊かさを享受することが可能となるのだ。

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1 このゆえに自分の最も自信のある部分を神のタッチ受けて砕かれる経験をペニエルの経験と称する。
2 “he will rule as God”の意。転じて神のプリンス。

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