天のサブスタンスを地に翻訳して実体化する-天と地の狭間で-

挙げられること。ヨハネは霊のうちにBECOMEした。訳語が難しいが、「霊の中にあらしめられた」と今回のメッセでは表現した。このエクスタシー経験についてダンテはこう書いている:

And suddenly it seemed that day to day
Was added, as if He who had the power
Had with another sun the heaven adorned.

またベアトリーチェは次の詩を詠んだ。

Thou makest thyself so dull
With false imagining, that thou seest not
What thou wouldst see if thou hadst shaken it off.
Thou art not upon earth as thou believest;
But lightning, fleeing its appropriate site,
Ne’er ran as thou, who thitherward returnest.

今回のメッセでも語ったが、スーパーナチュラルを天使の羽や金粉が舞うとか、手から油が流れ出るとか、どこか宙に浮いた傾向が聖霊派あたりではよく見られる。これが天使の羽であろうか? むしろ主を貶めることになる。

イエスが12歳の時、神殿に残り、マリヤとヨセフは彼を探し出して叱責すると、「なぜわたしを探したのですか。わたしが父の元にいることがわからないのですか」と答えた。彼らは大いにイミフであったことだろう。イエスは天のリアリティ、その親子関係のマトリックスの中に生きていたのだ。が、イエスは家に帰ると父と母に仕えたとある(Luke 2:41-51)。彼は天のマトリックスに生きている一方、地上の家族関係マトリックスにおいても責任を果たしていたのだ。考えても見よ、神が30年間忠実に人間生活を送られたことを!

イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。-Luke 2:52

この「愛された」とあるのは” in favor with God and men”。神のfavorとはスーパーナチュラル、人のfavorとあるのはナチュラルである。すなわち天のリアリティを地上において翻訳し、地のプロトコルに従って表現し、天のサブスタンスを地において実体化したのだ。まことに「御心が天になるごとく、地にもなるように」のデモンストレーションである。当たり前(ナチュラル)の人間生活の中で当たり前に生きること。この中にスーパーナチュラルが介入するのだ。

2014年12月、予期せずしてアレが起きた。御言葉を経ずに直に見せられ、語られた。それはかなりの程度地において翻訳され、実体化されつつあるが、今でも妄想か幻覚か、結論を保留している部分がある。

わたしが床にあって見た脳中の幻の中に、ひとりの警護者、ひとりの聖者の天から下るのを見た・・・-Dan 4:13

それから聖書が立体化した。御言葉が浮き上がり、イエスの言動が3D映画を観ているかのようにリアルに迫る。神が直に語りかけて下さる。御言葉を解き明かすとか、その霊的意味を探るとかではなく、語りかけ自体を味わっている。つまり霊の会話(conversation)を楽しむのだ。

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。-John 3:11-12

天上のこと-そう、これを追求する欲求が抑えられず、湧き上がる。われわれの得たものはわれわれの思いをはるかに超える。その見たものを魂の思いで解読し、言語化して表出する時、それは実体化される。霊によりモデュレートされた言葉は、エロヒムの霊が塗り込まれ、われわれのしもべとしてわざをなして下さるのだ(☞御霊で変調された言葉を語る)。

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
・・・
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:7-10

奥義、すなわちミステリー。神の秘された事柄

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2

この天のサブスタンスを見出したならば、地のプロトコルに翻訳して実体化すること。そのために地の事においても忠実であることが要求されるのだ。五感(肉)に仕えることができない者が霊に仕えることができるはずがない。モーセもヨセフもエジプトで訓練されたことを忘れてならない。カナンの地には親の資産を食いつぶす愚かな兄たちがいたのだ[1]これは、言わずもがな、キリスト教の光景である。CSとかで子供を育てるな。エジプトつまり世において訓練せよ!

だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。-Luke 16:11

今回のメッセでも語ったが、家計も複式簿記で管理すること。パウロは「わたしたちはキリストと共に死んだとみなしなさい」(Rom 6:11)。この「みなしなさい」は会計用語の「仕訳」である。貸方と借方の仕訳ができることが会計理解の第一歩であり、これは実に面白いのだ。ゲーテは複式簿記は人類の遺産であると言った。地上の経済に通じない者が天の経済を任せていただけるはずがない。小さなことに忠実であると、大きなものを任せていただけるのだ。

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1 これは、言わずもがな、キリスト教の光景である。CSとかで子供を育てるな。エジプトつまり世において訓練せよ!

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