日本人の集合的無意識としての国体と地的機関としての国家

天皇制は共産党の造語らしい。制度は変えることができる。が、馬渕氏などは天皇は憲法も超越すると。国家は憲法により規定されるが、天皇が総べる国体はいわゆる近代西洋思想的国家ではないのだ。天と地を結合する霊的存在だとも。この点、われわれのフェイスとコンフリクトが起きる。

国家は単なる地的機関、国体は霊的な存在なのだ。左翼は前者的スタンス、右翼は後者的と言える。精神病理的には国体は集合的無意識に基づくもの。それが日本神話だ。だから天皇がいないと国家は存立し得ても、国体は消失する。

ニッポンは国家のフレームで、日本は国体において定義され、成立する。極私的にもニッポンは嫌いだし、ニッポンキリスト教などはGHQの置いていった置物に過ぎない。だから日本人の精神性とは相容れない。なにがしかの嘘臭さを人々は感知しているのだ。興味はあるが遠巻きに見てるだけ。

が、ジーザスは日本人の深層心理には浸透し得る。だから僕もクリスチャンでいるのだ。要するに人工的なニッポン国家が生来の日本国体を覆い隠してきた戦後70年、国家のフェイク性が明らかになってきて、人々は国体に覚醒しつつあると言える。というか、自分が何者であるのか、自分のアイデンティティーとルーツ探しをせざるを得ない時代なのだ。そんな中で例の『日本国紀』などが爆発的に売れているわけ。

ニッポンキ業界の一部では、天照はジーザスのことであり、日本神話は聖書の書き換えであるとか、天皇家はダビデの血統であるとか、何とかクリスチャン・フェイスと国体を両立させようとするむきもある。これは日本人としての抑圧されている集合的無意識と霊的真理を妥協させんとすることだ。まあ、すでにニッポンキ業界をガチで相手するのもあほらしのだが。ご勝手にどうぞではある。

聖書ははっきりと言っている:血肉は何の意味もない。エクレシアはニュークリチャー、新創造であって、地のものではないのだ。さらに、魂(精神)のものでもない。だからクリスマスなどは騒ぐものではないし、ジーザスが地上に生まれたことを祝うのも極私的には違和感だ。大切なのは割礼の有無(=知的在り方)ではなく、新しく造られること。そしてこの法則によって生きることなのだから。

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

Gal 6:14-16

クリスチャンは国体でもなく、国家でもない、別の権威の系統と領域に生きる存在である。

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