オブジェクト指向言語JAVAとフェイス

最近流行のプログラム言語にJAVA というものがあります。JAVAはC言語を発展させて構造化を徹底させたいわゆるオブジェクト指向言語です。この言語の特徴が何だかとても聖書的なんですね。


JAVAでプログラムを書くときには、すでに用意されているライブラリーの中にあるクラスファイルというものを利用します。これは例えばウインドウを開きたいときなど、誰でもが共通に使う部分はその用途ごとにクラス分けして、ちょうど半オーダーメイドの洋服の型紙みたないものが用意されているわけです。この型紙に自分のオリジナルな機能を付け加えて自分の目的にあったプログラムを書くわけです。このクラスに自分の機能を付け加えることを継承と言います。そしてできたクラスだけではまだプログラムそのものではなく、これを実体化してオブジェクト(実行ファイル)ができるのです。


私たちはアダムにあって誕生しました。私たちが継承した罪(Sin)はアダムにあって人類に入り込んだのです。この罪(Sin)はいわばクラス(型)みたいなもので、これが実体化されて個々の罪の行為(sins)が生まれます。神の目から見てアダムの腰の中にいた私たちも、アダムが罪を犯したとき罪を犯したのです。え、私はその時にはまだ生まれてなかった!とは言わないで下さいね。神の目においてはアダムはすべてを含んでいたのであり、アダムの罪はその後の全人類の罪のいわばクラス(型)なのです。このアダムにあって入り込んだ罪のクラスが人類の歴史の中で実体化されて個々の具体的な罪々が行なわれるのです。問題は私たちがすでにアダムのクラスに含まれていることであり、あらゆる罪はその実体化なのです。


そこで神の救いはアダムにある私たちをまず終わらせることから始まります。つまりアダム・クラスを削除するのです。そして私たちをキリスト・クラスに復活させるわけです。こうして死と復活をとおして、私たちはクラス(血統)の入れ替えがなされます。このときキリストにある私たちには神の義が継承されるのです。これは誕生のクラス(系列)の問題なのです。ひとりの違反により全人類が罪人になったように、ひとりの義の行為により私たちは義とされるのです(ローマ書5章を参照のこと。これを「同一視の原理」あるいは「包括の原理」と言います。神の目から見て、私たちはキリスト・クラスに属しており、キリスト・タイプ(型)の義が私たちの人生において具体的な形で義の行為として実体化されるのです。要するに信仰はすでに得ているクラス(霊的事実・真理)を実体化することです(ヘブル11:1)。よってアダムのクラスに属する人が努力してなすことではありません。神の国に入ることは、自分が生まれたクラスがどこであるか、つまり誕生の問題なのです(ヨハネ3:5,6)。このことを真に見ればクルシチャン(苦シチャン)状態から解放されるでしょう!

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