フェイスのエルゴン-ルターの呪縛を離脱せよ-

フェイスのエルゴン-ルターの呪縛を離脱せよ-

2019-03-12 0 投稿者: drluke

プロテスタントの創始者とされるルターの、いわゆる「信仰義認」の問題点についてはすでに何度か触れている。彼の主張であり、プロテスタントの絶対的ドグマはこうだ:(★)私が律法を行うことによって救われることはできず、御子イエスを信じることによって救われる。根拠は

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。・・・なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。-ローマ3:20;28

20節の「律法を実行する」という訳には自ずと「私が行う」という意味が込められている。さらに

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。-同4:5

とあることから、「私が行う」ことによらず、「私が信じる」ことにより、(★)のようなドグマが形成される。主語はあくまでも「私」である。シェマティックにすると

(罪の自覚)律法←<行う>--<信じる>→御子(義認)

このようなマトリックスから、邦語訳における「御子に対する信仰(Gal 2:20)」とか「神信じなさい(Mark 11:22)」といった訳が生み出される。中心はあくまでも「私」である。

しかしギリシャ語の文法の初歩を知っていれば、例えば、田川訳では次のような訳がなされている。

だから律法の業績からではいかなる人間も神の前で義とされることがない。律法によって生じるの罪の自覚である。すなわち我々が考えるには、人間は律法の業績なし、信によって、義とされる-ローマ3:20;28

この業績と訳された単語はエルゴン(ergon)、業とか働きと訳されるが、これは私のエルゴンではない。律法のエルゴンである。律法には人を義とする能力がないことを言っている。

また義と認められるのは「私が信じた」からではなく、私のうちに生じた信(フェイス)が義と認められるのである。その由来は? もちろんキリストである。

だが今や、律法なしで神の義が顕された。律法と預言者によって証しされているけれども。それはイエス・キリストの信による、信じる者すべての者へと至る神の義である。-ローマ3:21-22

お分かりであろうか。現行の新改訳や新共同訳などの訳文に頼ってはならないのだ。いつも言うが、それらの訳は訳者の神学や思い込みのフィルターを通過して居雑物が混じっている!

またガラテヤ書では-

もしも生命を生み出すことのできるような律法が与えられていたら、実際に律法から義が生じていたことであろう。しかしイエス・キリストの信から、信じる者へと約束が与えられるようにと、書物(=律法)は一切を罪のもとに閉じ込めたのである。-3:21-22(田川訳)

とあるとおり、律法は生命(ZOE)を生み出すことはできない。それはイエス・キリストの信によるのだ。

かくして、キーワードは、<私ではなくキリスト(not I, but Christ)>。すべての根源なるお方から生じる信(フェイス)、それは私たちの再生されたエロヒム属の霊から生じるのである。なぜ? YHWHエロヒムはご自身のすべてをわわれわれに分配(インパーテーション・インプラント)してくださったからだ。よってシェマティックには次のようになる-

律法のエルゴン=罪意識-×→<私(結合)キリスト>の信(フェイス)⇒義意識

私はキリストのうちに飲み込まれてしまうのだ。ゆえに

生きているのはもやは私ではなく、キリストである。今に肉にあって生きている私は・・・・御子の信(フェイス)にあって生きるのである。-ガラテヤ2:20(私訳)

私も確かに五感(肉=体+魂)において生きている。が、御子のフェイスにどっぷりと浸かり込んで生きるのだ。「我は~を信ず~!」と力む必要はない。御子が信じているから。

そしてそもそもパウロとヤコブの対立などはないのだ。ルターの理解のマトリックスにおいて自作自演的にジレンマに落ちている。事実、パウロはこう言っている-

我々は絶えず思い出しているのである、あなたがたの信仰の業や、・・・-1テサロニケ1:3(田川訳)

フェイスはエルゴンをワークアウトすると前にメッセでも語っている。この部分を他の邦訳で理解してはならない。それらは信仰に基づく私の業(働き)といったニュアンスが込められているからだ。が、フェイスのエルゴンである。だからヤコブは言っている-エルゴンを欠いたフェイスを見せろと(James 2:18)。そんなものはないのだから。

フェイスは自ずとエルゴンするのである!