再建主義の富井氏がTrichotomyを言い出した

いや、これはびっくり。ついに再建主義の富井氏が私がかねがね主張していることを言い出された。あとは、モーセ律法とその上位互換のいのちの御霊の法則の関係性に気づかれればいいのだが・・・。リバイバルとは天の侵入。まことに同意だ。

引用

tomi 2019/03/22(金)04:29

信仰だけが重要である

”主にあって大胆不敵な人間になるには、自らが偉大で強くなる必要はない。偉大で力強い神を信じることだけでよい。”

R・J・ラッシュドゥーニー

1.

われわれが行っているのは「人の歓心を買おうとすること」ではない。

人間心理を操作して人をクリスチャンにすることでもない。

クリスチャンになるということは「超自然的な体験」である。

本当のクリスチャンは、例外なく「生まれ変わりの体験」をする。

内側に神の霊が入るので、考え方がまったく変わる。

考え方が世の人と同じクリスチャンは、自分が本当にクリスチャンであるかどうか疑ったほうがいい。

私は、回心したときに、超自然的な体験をした。

聖書の奇跡の箇所を読むと、目の前でそれが行われているかのような気持ちになった。

イエスの御言葉だけが突出していると感じた。

「これは、人間の言葉ではない!神の言葉だ!」と。

パウロの言葉にもそのような印象はなかった。

ただイエスの御言葉だけがそのような印象を与えた。

毎日毎日、気づきが与えられた。

葉書大のカードに気づいたことをメモしたら10センチほどの分厚い束になった。

周りの空気がまったく変わってしまった。

常に喜びがあり、その歓喜の空気はどこに行ってもあった。

しかし、教会とクリスチャンのサークルの部室には特別にそのような空気があった。

自分がクリスチャンになったときの体験があるので、今のキリスト教の「リバイバル」が偽物であるとわかる。

本当のリバイバルとはこんなものではない。

リバイバルとは「天の侵入」なのである。

天界の歓喜が、地上界に入ってくる。

私の父親の葬儀は、札幌の街並みを一望できる山の上にある教会で行われた。

そこから、夕日が当たって輝く大雪山の山並みが見えた。関係者によると、こんなにはっきりと見えることはあまりないとのこと。

そのとき、私は父親が天でニコニコして大変喜んでいるのを感じた。

クリスチャンになるということは、まったくの別人になるということなのである。

聖書を喜び、自分の考えを捨てる人間になることである。

自分の心の王座に御霊が住む人間になることである。

2.

生まれながらの人間は「体と魂」の二つしかない。

アダムはもともと「体と魂と聖霊」の三つから構成されていた。

罪を犯して「死んだ」ときに、聖霊を失ってしまった。

御霊は、罪人に住むことはできないほど聖いからである。

イエス・キリストが完全に律法を守り、われわれの罪の罰を受けて無罪としてくださったので、われわれには、聖霊が戻って来られる。

誰でもイエス・キリストを信じる人には、聖霊が与えられる。

だから、クリスチャンは「体と魂と聖霊」の三つから構成されている。

ノンクリスチャンは「体と魂」だけである。

生まれ変わったクリスチャンは、聖霊が魂を支配し、魂は体を支配する。

しかし、不従順の罪に陥ると、聖霊よりも自分の魂が支配し、それに基づいて体を動かすようになる。

こうしてクリスチャンでも罪を犯す。

「御霊に満たされる」とは「御霊が自分の魂と体を完全に支配する」状態を意味する。

聖書は御霊によって書かれたので、御霊に完全に支配されている人が聖書と矛盾することを考えたり行動することは絶対にない。

魂と体は堕落しているので、この二つに支配され、聖霊の働きを抑制する人は、世の人と同じように考え、行動する。

現在、教会やミッションスクールが、左翼思想に汚染されているのは、指導者本人に生まれ変わりの体験がないか、罪を犯して聖霊を抑制しているかのいずれかが原因である。

聖書的であろうと努力するクリスチャンを嘲笑し、揶揄するような人々は、生まれ変わっていない。

ノンクリスチャンのまま、キリスト教の活動をしている。

つまり、偽預言者である。

3.

聖書に基づかない活動をいくら行っても、呪いを積み上げることにしかならない。

共産主義やポリティカル・コレクトネスにしたがって、体罰禁止やらLGBTに賛成するような人々の人生は呪いに満ちている。

解放されるべきだ。

聖書を最高権威として受け入れるしかない。

そして、われわれは、世俗の興味や関心に合わせるのではなく、聖書に基づいて率直に行動するべきだ。

いくらこちらが心理操作しても、聖霊による再生は起きない。

自然的な方法では、超自然を起こすことは不可能である。

「集会で信仰を決心しやすいような音楽を流せば決心者が増えるだろう」とかの配慮はむなしい。

決心者の数は神が決定される。

そして、人の決心と生まれ変わりは、突然、何の脈絡もなくやってくる。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3・8)

4.

聖霊によって生まれた人は、人間の力に頼らない。

ただ神の力に信頼する。

行動パターンが、世の人とはまったく違うのである。

人気とか、評判とか、社会的地位とか、学歴とか、まったく関係ない。

「キリスト教界では、あの先生を怒らせるとやっていけない」「おカネがないと伝道はできない」とか考えている人は、神の力を信じていない。

イエスご自身もパウロも、伝道開始の前に荒野に行った。

パリサイ人が支配する当時の宗教界と折り合いをつける努力などしなかった。

イエスは、たしかに迫害され、十字架につかれたが、その十字架が勝利をもたらした。

神に信頼すれば、どのような悪条件も「勝利への踏み台」になる。

信仰だけが重要である。

それさえあれば、必ず勝利する。

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