平成の凋落-病識なき国家は滅びる-

以前書いた記事を採録しておこう。

今朝の日経に掲載されていた試験問題を解いてみた。英・国は、まあ、そこそこだ。が、社会はヤバイ。高校時代、社会は一夜漬けでかろじて通した私的には、センターの問題はとてもとても、だ。実は、私は共通一次も知らない世代。当時、国立は一期二期と分かれ、東大は独自に一次と二次試験があった。一次では、理系でも英、数(数I、IIB)、国(現代文、古文、漢文)、理(二科目選択)、社(二科目選択)を求められた。社会は元から無理だった私は考えた。過去問10年分くらい調べたところ、四択のうちの正解は②が多いことを発見したのだった。で・・・・。

いやのどかな時代でした。共通一次やセンター試験の功罪は大きい。物差しを一本にし、ほぼすべての大学がそれを利用することにより、大学も受験生もその尺度で測り返されるのだ。大学が偏差値でランク分けされ、かくして大学の独自カラーが消失。個性が大事とかの社会のスローガンと逆行した。私は慶応にも一時席を置いたので分かるのだが、昔は早稲田と慶応ではまったく違った。慶応ボーイの私はあんな稲刈り大学はまっぴらと思っていたものだ。センター試験などはやめよと言うのが教育界に身を置く私の感想だ。が、もちろんこれで権益を得ている人々もいるわけで、これをなくして昔ののどかな時代にバック・ツーすることは無理だ。

私の理想は旧制高校制度。漱石の『三四郎』の世界をこよなく愛する私的にはあの「選良」にあこがれるのだ。東大の三四郎池で美禰子さんとデートする場面なんて最高のシチュエーションだ。前々から言っている通り、ニッポンの復活は20%のエリート特権階級を作ること。民主党やニッポンキリスト教に現れているとおり、今みたいな嫉妬と妬みによるフラット化社会はエントロピーがだらだらと拡散して活量を失う。これは物理法則だ。

もっともっと格差と凸凹を作ること、均してはならない。現在はかろうじて私立の中高一貫校、そして予備校が文科省の指導要領に縛らない教育をしていることで学力が保たれている。もっと言えば、教育を文科省から開放すること[1] … Continue reading。さらに穴にボールを入れるだけの人たちが億単位のカネを得ているのに、教師はせいぜい一千万台、予備校人気講師で数千万レベルだ。これを実績に応じて億単位に上げること。活力を生むには教育界にカネを注入することだ。というより、政治・軍事・経済・倫理で去勢されたニッポンに残る最後の砦は教育なのだ。ここが落ちるとニッポンは間違いなくオワル。

よく見れば「平成」って、なんとかる~い元号かと思える。フラット化社会、エントロピーの弛緩、いのちの垂れ流しといったイメージだ。

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パレートの8:2の法則。社会において重要な仕事の80%は20%の人々がこなしている。あとは彼らにぶるさがっておこぼれをもらうだけなのだ。アリの社会と同じ。これは人権とかの理屈の世界ではなく、自然の理なのだ。

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