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「現在は千年期であるが新天新地ではない」と再建主義者

いつもの再建主義の富井氏の主張。AD70年に再臨があり、携挙もあったと。現在は千年期であるが、フル・プレテリズムのような新天新地ではないと。大変興味深いのでクリップしておく。

引用

tomi 2019/05/24(金)00:20

フルプレテリズムは善悪二元論の異端である

1.

主権の確立には、法的と実際的の二つがあります。

たとえば、おカネを出してアパートの権利を得たら「アパートに対する法的な主権の確立」。

立て替えをしてマンションを建てたいが、アパートの住民が出ていかず、計画が延び延びになっている場合、「実際的な主権」は確立されていない。

住民が出て行って、立て替えが可能になれば、それは確立される。

紀元70年の再臨において成就したのは、法的な主権であって、実際的な主権ではありません。

キリストは全世界に対する法的な主権を確立された。しかし、実際的にはまだ確立されていない。

当時の世界にはノンクリスチャンがおおぜいいて、奴隷制度があり、数々の悪魔的な風習がはびこっていた。

この実際的な主権は、福音伝道と教育を通じて徐々に拡大される。

その漸進的な拡大が完成したときに「全世界に対するキリストの実際的な主権が確立された」ということになる。

この2つを混同しているのがフルプレテリズム

紀元70年に実際的な主権も確立された、と教える。

もしそうならば、現在世界において悪魔はなぜ働いているの?

しかし、フルプレテリズムは「キリストの実際的な主権は紀元70年に確立された」と教える。

今が22章の新天新地なら、今のように悪魔が働く状態が、永遠に続くということになる。

これは、善も悪も究極であり、両者は「永遠に存在し続け、戦い続ける」と考える善悪二元論。

マニ教やゾロアスター教と同類の教え。

2.

「すでに復活が起こったと言って…信仰をくつがえして」いるのですね。
今が22章の新天新地なら、悪が栄え、涙も叫びもある状態が「御心」そのものであり「御国」そのもの、神様の創造の目標であったことになります。

そうですが、パウロの時代にはまだ再臨がなかったので、復活は「契約的」「霊的」復活でした。

紀元70年に、キリストが再臨されたときに「実際の復活」が起きました。

それが携挙です。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・16-17) 

「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」ということは、当時生きていたクリスチャンたち「もよみがえる」ことがわかります。

携挙は実際的な復活の出来事だったのです。そして、この携挙は、われわれその後の時代に生きているクリスチャン全員が肉体を離れるときに与ります。

今という時代は「実際的な復活が起こり続ける時代」なのです。

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