「ディスペンセイション主義は新しいメシアを提示する」と再建主義者

これは再建主義者の富井氏が全能神教会に対する批判であるが、彼はディスペンセイション主義と全能神教会を同類と扱って、全能神を批判する形をとりつつ、巧妙にディスペンセイション主義を中傷しているので、その問題点を指摘する[1] … Continue reading

2.

「人間の堕落した性質をすべて取り除くことはなかった」

人間の堕落した性質が完全に取り除かれるのは、血肉のからだを離れる時である。

つまり、昇天して、新しい「御霊のからだ」を受ける以外には解決はない。

人間の「完全な聖め」は、法的な事実ではあっても、実際的なそれではない。

「堕落した性質」とは何を言うのか不明であるが、もし肉(flesh)を意味するのであれば、聖書はこう語っている:

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。-ガラテヤ5:24

ここはアオリスト時制であり、包括的に成し遂げられたことを意味する。これも法的事実とするのだろうか? これは霊的事実であり、フェイスするものがそれを経験するのだ[2]フェイスとは願うことの実質である(Heb 11:1 新共同訳新版)とあるとおり、実質・実体である。単なる契約事項ではない。

もし「堕落した性質」を内住の罪(単数形、Rom 7:20)であるとするならば、それは携挙の時、この旧創造に属する体が変貌されるときにそれは除かれる。「昇天して、新しい「御霊のからだ」を受ける」とは意味不明である。昇天とは何か? 現在の体の死? どうも携挙のことではなさそうだ。なぜなら、彼においては携挙はAD70に起きてしまったからだ。

「人間を新しい時代に導く」

イエスにおいて新しい時代は来たのである。

さらに新しい時代は不要であり、それは来ない。

イエスの御業を失敗または不完全として描き、新しい救いや時代が必要だと説くのは、ディスペンセーション主義や統一協会と似ている。

この教義の隠れた目的は「新しいメシア」を提示することである。

イエスを廃位させ、新しい救い主を提供したいのは、サタンである。

タルムードユダヤ教はイエスをメシアとして認めていない。

そのタルムードユダヤ教は、ローマ・カトリックやディスペンセーション主義やものみの塔や統一協会を作って、イエスとは似て非なる「再臨のメシア」を作り出した。

ここで彼は全能神もものみの塔もディスペンセイション主義も、「新しいメシア」を提示すると主張する。前者ふたつはともかくとして、ディスペンセイション主義が新しいメシアを提示することはない。それは富井氏の脳内事実に過ぎない。藁人形の手法(ストローマンの手法)であり、ディスペンセイション主義が言ってもいないことを言っているとして、それを攻撃する手法である。

イエスは「私は昇天しなければならない。なぜならば、御霊が降臨されないから」と言われた。

われわれは、地上を歩むキリストを必要としていない。

キリストは天におられる。

地上におられるのは、御霊である。

われわれクリスチャンの体の中におられる御霊こそがわれわれにとって必要なお方だとイエスが言われているのに、「それじゃあ足りない。イエスがもう一度地上に来られる必要がある」というのは、聖書啓示を無視する重大な違反である。

だから、ディスペンセーション主義の切迫再臨説は、悪魔に由来する。

キリストは体をもって復活された。この点、ものみの塔の「霊者としてのみ復活した」は誤りである。が、同時に麦として撒かれることにより、その個体の限局されていたいのち(Zoe)を解き放ち、いのちを与える霊として今・ここに聖霊にあっておられるのだ。

最後のアダムはいのちを与える霊となられた。-1Cor 15:45

天に御父が、その右にキリストが、地上には聖霊だけとするのは聖霊派も同じだが、今・ここに私たちのうちにおられるのは父と子と聖霊、つまり三位一体のYHWHである。この三位格は相互内住(相互内在あるいは相互浸透、ペリコレーション)により分離することはできない。

その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。・・・イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 -ヨハネ14:20-23

「その日」とはいつか? 聖霊が来られる日である。その日には、「わたしたち」があなたがたのうちに住まうと明言される。もちろんこれは肉体においてではない。霊においてである。私たちのうちにはキリストが住まわれ、私たちはキリストのうちにいる。そこでパウロはこう宣言する:

それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。-2コリント13:5

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1 私自身はディスペンセイション主義者ではない。恵みと律法を対立概念としてとらえてはいなし、7つの時代の区分にもこだわっていない。ただ、プレミレであることは確かである。
2 フェイスとは願うことの実質である(Heb 11:1 新共同訳新版)とあるとおり、実質・実体である。単なる契約事項ではない。

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