「肉体の死が携挙である」と再建主義者

AD70にジーザスの来臨と携挙が起きたとする再建主義の富井氏の論は先に紹介した。この中で「昇天」とは、つまり「携挙」とは肉体の死を指すのであろうかと疑問を呈しておいた。今回、私の指摘を受けてか否かは不明であるが、次のような言説をなされた。

3.未来に関する預言だと思っていた箇所が過去に関する預言だった

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、<主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。>このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・14-17)

すでに挙げた1コリント15や、2テサロニケのこの箇所を、今のクリスチャンは未来の出来事だと考えています。

そのため、私たちの現状がいかに素晴らしいものであるか見失っています。

携挙はすでに起きたのです。そして、それ以降、クリスチャンは個人的な(いわゆる)「死」の際に、携挙を経験する。(下線はDr.Luke)

なぜ携挙を経験すると言えるのか?

なぜならば「死は紀元1世紀に滅んだから」。

肉体を離れて魂だけになったら、死んだことになってしまう

明確に肉体の死が携挙であると書いている。・・・うーむ。われわれが地上の幕屋である肉体を離れる時、霊の体を得ることはコリント書によって明らかである。

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。-2コリント5:1-3

しかし、肉体の死を携挙とはどういった思考回路になるのであろうか? AD70には物理的に一部のクリスチャンが携挙されたが、今のわれわれは「肉体の死という形の携挙」を経験すると?! うーっむ。

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