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道元の時間論

ファイル 151-1.jpg仏教ではいわゆる輪廻転生を教え、死後の世界に極楽があるとかの俗説があるが、これは堕落した葬式仏教。元来の仏教、特には徹底して現在に生きることを教える。「後ろを顧みず、前を思んぱからず」。唯現在のみ、此処に生きる。これが道元の(主観的)時間論。と言うよりは、私たちにはそれしかないのだ!それ以外のものを求め、それに安息しようとあれこれ詮索し、思い煩い、後悔することが妄念。

私たちクリスチャンはもちろん永遠のある方(I AM)にあって今に生きる。神もつねに現在形。これをイエスは、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と語った。いのちは常に、此処に、生きている。しかしそれはすでに完成されている未来を現在に逆算することなのだ(→Mr.SugarのBlog参照)。これが道元との違いかも知れない。

人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。人舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、めをしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。たきぎははひとなる、さらにかへりてたぎぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり。かの薪、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのちさらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

注:訳は不要と思いますが、この文の「」とは「いのちの御霊の法則」あるいは「基督」と解して読んでみてください。なお、この「法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり(法と自分がひとつになるとき、ただちに本来の自然な自分に安住する)」と言う生き方を親鸞は「自然法爾(じねんほうに)」と表現している。この辺の消息については古いBlogにて「道元」、「親鸞」などを検索して下さい。かなり突っ込んで書いています。

【参考】意識の扱い方-キリスト者と禅者の類似と相違-

<<余談>>写真の魅力は「瞬間(いま)」を切り取れることにあるのだ・・・。

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