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霊の時代:サドカイ性からの離脱

しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、みことばも神の力も知らないからです。-Matt 22:29

これは当時の知性的"信仰"者であり、天使も復活もないと主張していたサドカイ人の質問に対する主イエスの回答だ。みことば(graphē)や神の力(dunamis)はどこにあるのか。それは霊の領域にある。まことに

神の国は言葉(logos)ではなく、力(dunamis)である-1Cor 4:20

その神の国には3種類の時制がある。それはイエスと共にすでに到来した(初臨の時代)、今到来しつつある(教会時代)、そして完全に到来する(再臨と千年期)。この神の国の中に生きること。これがCUBEの生活だ。

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」-Mark 9:1

私たちの魂は思い・意志・感情からなるが、その魂の領域には神はおられない。神は霊であるから、礼拝する者も霊と真理によって礼拝する必要がある(John 4:24)。この真理(alētheia)とはいわゆる正しくかつ正確な正統信仰箇条などではない。それは霊的な領域のリアリティ、実体、実質だ。ヘブル書(Heb 11:1)の信仰の定義、信仰とは私たちが希求している事の基であり、見えないものの証明である(岩波訳)。この基(hupostasis)、すなわち実質、実体だ。それは知性でこねくり回すようなものではなく、そのうちに私たち自身が浸し込まれ、そのうちに生きる領域、そしてそれが私たちを通して溢れ出るいのちの実質そのものなのだ。当時の合理主義者サドカイ人たちはそれが見えなかった。

今日も同じである。霊の領域に浸り込み、その流れに乗るとき、それは私たちをCUBEの住人とする。キリストの御霊ではない霊はそれに堪えられらない。思想や信条や価値観やキリスト教的実行などはいくらでも共有できるだろう。しかし霊は自ずとその出自を露わにしてしまう。

また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。-Mark 3:11

そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。-Mark 9:20

何度も繰り返すが、時代はすでに相転換している。私たちがシェアすべきは正しい信仰信条でもなければ、キリスト教の伝統的儀式でもない。霊の領域に存在する神の国だ。それは明確な現れをもってその存在を自ら証明する。すでに時代は霊の時代。人は自分の魂の理解できない事柄、知性のフレームに収まりきれない存在、感情と相容れないものに対しては拒否反応を示す。これが魂の自然な傾向だ。

魂的な(Gk)人間は、神の霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。-1Cor 2:14

御霊は今までも、今も、これからも自由に動かれる。鍵は私たちのキャパシティの問題。その現れがいかなるものであれ、主の主権に服しつつ、どこまで開き続けることができるかだ。

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。-Rev 3:13

参考油注ぎと油塗りについて

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