Entry

トップ > 日記 > 快晴につき・・・

快晴につき・・・

どうもこのような日は海が見たくなる。・・・で、湘南へ。横横バイパスから逗子で降りて、葉山を通過、稲村ケ崎温泉に。ここは「レストランMAIN」と同じ店舗。

ファイル 3430-1.jpg

ファイル 3430-2.jpg

リブロース・ステーキとクラブサンドがリッチ。この店は134号線沿線のチェーン店のひとつ、いずれもアメリカンで実に美味。温泉はトロっとした黒湯。PH8.7と弱アルカリ性で保湿効果が高く美肌の湯にして、身体に溜まった老廃物を排出し疲労回復など多くの効果があるとされる炭酸水素イオンが871mg/?と全国でもダントツ。身体と心がほかほかと。

で、面白いものを発見。あの禅の大家鈴木大拙の盟友にして「絶対矛盾的自己同一」の西田哲学の西田幾太郎の遺宅「寸心荘」だ。134号線から山の中に入ったクルマがかろうじて通れる場所にあった。学習院大が管理しているようだ。大拙も鎌倉円覚寺釈宗圓の元で見性している。彼の見性の辞は「ひじ外に曲がらず」だった。

ファイル 3430-3.jpg

ファイル 3430-4.jpg

鈴木大拙についてはここでも何度も書いているが、その本質は「即非の論理」。「AがAでなくしてAである」。つまり「Aかつ¬A」が成立する世界が禅の悟りの境地。論理に囚われると寅さんが言うように配線がこんがらがってイロノーゼに陥る。寅さんの世界はまさに配線が一本だけ、そこでは「Aかつ¬A」が成立しても何ら問題がないのだ!神はひとりにして父、子、聖霊の三つの位格を持つことも別に問題ではない。これを西田は「絶対矛盾的自己同一」と定義した。客体と主体が分離するところに論理矛盾が生まれるのだ。禅の世界では客体と主体がひとつになる世界を追及する。見る者と見られる者が分離しない世界。大拙は『禅と精神分析』において、芭蕉の句とテニスンの詩を比べている。

 ふとみれば/なずな花咲く/かきねかな-芭蕉

この世界ではなずなと自分がひとつに溶け合ってしまう。対してテニスンは花を見て、色や形状を分析的に記述する。これが西洋の方法であり、その分析した瞬間に自然はいのちを失うのだ。禅の精髄は「主客一体」、もっと端的には「一如」の世界だ。これを大拙は"As-It-Is-Ness"と表現した。先に"Ti Amo"の原詩と英訳詩を比較したが、日本語は実にシンプルにソノ世界を描き出し、自分がその世界にいるかのように感じさせる。対して英詩は客観的かつ記述的で、何かの報告書を読まされている感じだ。俳句は五七五の中にひとつの世界を作り、私たちを引き込み、その世界と私をひとつにする。もっと言えば、観察する私が消える世界なのだ。

かくして禅の世界は「不立文字(ふりゅうもんじ)」、しかし大拙は晩年に告白している、「わしは語りすぎた・・・タタタター(如)はどこかへ飛んで行ってしまった・・・」と。彼自身の仕事が禅を伝えんとして、禅を離れてしまったのだ*1。まさにAであろうとしてAでない境涯、すなわち即非の論理、絶対矛盾的自己同一の人生だった。西田が死んだとき、大拙は深く悲しみ、話ができる存在を喪失したと嘆いたと言う。・・・と、これから先はこちらをご参照いただきたい。

*1:これはキリストも同じだろう。キリストを語ろうとして、文字化するとき、キリストのいのちはどこかへ飛んでしまう。聖書も同じ。その文字にいのちを吹き込むのは聖霊。まことに文字は人を殺し、霊は人を生かす。いわゆる神学はいのちの抜け殻に過ぎない。しかもフォイエルバッハが喝破した通り、神学は実はその人物のキャラを映す人間学に過ぎないのだ。私的には病理の産物だ。霊は人の知性に束縛されることはないのだ。

Access: /Yesterday: /Today: