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"太陽がいっぱい"から一転俄に搔き曇り

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このところチネチッタにて名画を上演している。現在は『太陽がいっぱい』。アラン・ドロンの不朽の名作だ。TVやDVDでは観ているのだが、スクリーンでは初めて。やはり違う。この作品の魅力は心理描写。役者の目をアップにしたり、殺人場面において、子供が遊ぶシーンや無邪気なBGMを流す。フィリップとトムの暗い確執と地中海の輝く太陽。無機質な画面に独特の虚無感が漂い、不協和音のBGMが不安感を掻き立て、自分がトムとしてそこにいるかのように錯覚する。犯罪を犯した後の罪悪感と恐れの感覚を自分のものと感じてしまう。アベルを殺したカインの良心の咎めが、あたかも人類普遍の「集合的良心の呵責」として私のうちにも宿っており、それが刺激されて私自身の良心が疼いてしまうのだ。

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各種工作がうまく行き、トムはもう安全。「最高だ・・・、太陽がいっぱいだ・・・」とつぶやく。そしてついに登場する敏腕刑事。ラストシーン、「リプリーさん!」とおばさんが呼ぶ。一瞬、ふと緊張感の走るトムの顔。が、「電話ですよ」の声に、顔がほころぶ・・・。しかしこの刑事の鋭い視線がこわい。もし主の血潮の覆いがなければ、イエスに見つめられる時にはこんな感覚を覚えるのだろう。ほんの短時間出るだけだが、わが内なる「集合的良心の呵責」に訴える演技は強烈な印象を残す。エリノ・クリザなる俳優だそうだが、クセのあるややアブナイ役を演じると素晴らしいゲイリー・シニーズによく似ている。

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かくして暑い夏(本日は大暑)の午前を冷ややかに過ごせたのだ。その足で、またも海が見たいと言うことで江ノ島へ。珊瑚礁のカレーが無性に食べたくなったのだ。まったりと遅いランチをとり、しばし海辺で遊ぶ。太平洋の大海原はやはりイイ、心がほーっと解き放たれる。海の家がずっと並び、今晩は花火大会とかで浴衣姿の若い女性が目立つ。カップルたちが昼間から陣取りをしている。

で、オジサン的にやはり疼くのが、温泉。いつもの稲村ケ崎温泉にて小一時間半ほど過ごす。ここも黒い泉質で、ややぬるめ。サウナと冷泉、そして温泉を交代で楽しむ。この温度差がなぜか疲労感をスキッと抜いてくれるのだ。と、現地の漁夫らしき腕と顔が真っ黒に日焼けした(最近では「焦ゲル」と言うのだとか)オッサンがいい気分で鼻歌を歌い、ふと見上げると軒下に燕の巣が。6,7羽の燕が飛び交っている。燕が低く飛ぶ日は雨。

そのとおり帰途に、いきなりの大雨が。加えてワイパーが作動停止。前がまったく見えなくなり、急遽路肩に停止。外にも出られず、20分ほどがまんして、小降りになったのを見計らって無事に帰宅。あの燕たちは無事に巣に帰れたのだろうか。あの雨で帰れなかったらいったいどこで何をしているのだろうか?・・・などと想いを巡らせ、漢詩ができた。ちなみにワイパーは取り付けねじがゆるんでいた。都内では停電に、電車もストップとかで、いやいや、ちょっとスリルのある2013年夏の一日ではあった。

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(七絶・仄起式・下平声五歌韻)

浴楼に 燕 舞ふ  一石
瀛海(えいかい)蒼茫として 綠波 渺(びょう)たり
浴楼に 燕は舞ひ 野人は歌ふ
暮天 倐忽(たちまち) 盆を傾くるの雨
玄鳥(げんちょう) 歸へるを忘るるに 什麼(じゅうま)を作(な)さん

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