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惟道是従-老子二十一章

2013、AUTUMN。今年は暑さから一転寒さに、ゆえに紅葉が期待できる。ちらほら黄色の点々が目立ってきている。かくして今朝もヒジョーにハッピーだ

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 孔徳之容 惟道是従 /従徳の容は ただ道に是れ従う
 道之為物 惟恍惟惚 /道の物たる ただ恍ただ惚
 惚兮恍兮 其中有象 /惚たり恍たり その中に象有り
 恍兮惚兮 其中有物 /恍たり惚たり その中に物有り
 窈兮冥兮 其中有精 /窈たり冥たり その中に精有り
 其精甚真 其中有信 /その精甚だ真 その中に信有り
 自古及今 其名不去 /古より今に及ぶ迄 其の名去らず 
 以閲衆甫      /もって衆甫(しゅうほ)を閲(けみ)す
 吾何以知衆甫之状哉 /われ何をもって衆甫の状を知るや
 以此        /此れを以ってなり

老子。この人の言ってること、実に霊妙にして、脱力的人生そのもの。薔薇はなぜ薔薇であるのか。単純にそのように生まれたから。エクレシアはなぜエクレシアであるのか*1。単純にそのように生まれたから。

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・御霊によって生まれた者は霊です。-John 3:5-6

薔薇は自分が薔薇であろうとして努力しているだろうか?薔薇が自分は正統派の薔薇だぁ、と叫んでいるだろうか?否。エクレシアも同じ(はず)。エクレシアが正統な"キリスト教会"であろうと努力しているのがニッポンキリスト教の悲喜劇なのだ。エクレシアは単純かつ素朴に道(タオ)に従うこと*2。それはすなわちいのちの御霊の法則に乗ることだ。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29

で、その道の実体は・・・。

わたしは道である-John 4:16

*1:ニッポンキリスト教の諸々の教団や教派のお墨付きなど実に愚かなことと分かるだろう。人間の誰が薔薇に対してあえて「薔薇」のお墨付きを与えるであろうか?神の業を人のフレームに押し込めること。これがキリスト教の本質なのだ。そこからエクソダスし得た人は幸いだ。
*2:ここも注意。私の意志の力によって従うのではないのだだ。薔薇は薔薇の道に従って咲いている。彼らは歯を食いしばってはいないのだ。「従う」と言うより、ちょうど霊的飛行機に「乗る」だけ。乗ったら後は飛行機が運んでくれるのだ。こんな安楽なことがあろうか?クルシチャンは飛行機の中で落ちないようにあるいは飛ぼうしてガムバルのだ。まことにご苦労様なことではある。

Comment

Salt

同じ飛行機なら、ファーストクラスで行きたいですね。
薔薇は普通に咲いてれば、それだけで香りもすれば、虫も寄って来ます。
自分が薔薇かどうか、となりの薔薇はどんな薔薇なんて言い出すとバラバラになるわけで、本当にご苦労さんなことですね。
老子って不思議な人ですね。現在の中国にこのような感性や品格は残っているかしら?

  • 2013/11/02 12:40
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Luke

今のキリスト教は主の出番を排除しているかのようです。老子の時代に惹かれますね。

  • 2013/11/02 19:01
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