Entry

トップ > 信仰 > 荒野に宴をもうけ

荒野に宴をもうけ

ファイル 3961-1.jpg


ウォッチマン・ニーの黙想


 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。・・・御霊と御力の現われでした。-1コリント2:3-4

 聖書は二種類のクリスチャン経験を見せています。共に正当なものであり、必要なものです。ひとつは次のようなきわめて力に満ちた、ほとんど誇り高ぶるような経験です:「神は私たちを勝利の凱旋へと導かれる」、「私にとって生きることはキリストである」、そして「私は私を強めて下さる方によって何事もなし得る」と。しかし、一方で、そのまさに同じ人が、同様に真理であるのですが、次のように告白するのです:「私は死をも覚悟しました」、「キリスト・イエスは罪人を救うために来られましたが、私は罪人の頭です」、そして「私たちもまた主にあって弱いのです」と。後者のあり方はまったく別の種類のクリスチャンであるかのようです。不完全で、脆く、恐れつつ、確信にまったく満たされていません。しかし神の子の現実的生き方として、これらの二つの面が同時に存在するのです。私たちは明らかに二番目のあり方は排除して、最初のあり方のみを求めることでしょう。しかし、その両者を知ることはイエスラエルの神である方を知ることなのです。そしてまたヤコブの神を知ることでもあるのです!

Access: /Yesterday: /Today: