英霊の声
- 2013/11/11 17:56
- Category: 独白
- Tag: 三島由紀夫 老子
どうも金曜日に夜遊びが過ぎて風邪を引いてしまった。熱はないが喉がひたすら痛む・・・。
さて、shigeさんが指摘されるとおり、相対の世にありて、絶対を求むるならば、自らを滅びへと追い込んでしまう。三島と紙一重だったあの私が、幸いにもここまでチャラけることができたのは、ひとえにこの世は所詮浮世狂言と知ったからなのだ。
老子も曰く:
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓をもって芻狗となす。天と地の間は、其れ猶お槖籥(たくやく)のごときか。虚しくして屈きず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す。中を守るに如かず。-第五章
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普段目にしている外界の物的な世界は相対的な世界であり、幻想と言いますか夢や幻ではないかと思います。つまり実体ではなく霊的な世界こそが実体ではないかと私は考えます。とは言いましても双方の界を十分に把握しているわけではなく私はほとんど何も知ってはいませんけど(汗)。参考になるかわかりませんが相対世界ができた理由についてユニークな説明している本の一部を紹介させていただきたく思います。
神との対話p81 「相対性の領域は、私が自らを体験する為に創り出したものだ。このことはもう説明した。だからといって相対性の領域が現実になるわけではない。それはあなたがたと私が自分を体験的に知る為に工夫しそして今も工夫し続けている創られた現実だ。だが、この創られた現実は本当に現実的に見える。現実的に見せて、本当に存在すると思わせるのが目的だからだ。この方法によって神は自分以外の別の何かを考案した(厳密な意味ではこれは不可能なのだが、なぜなら神すなわち私は全てであるから)。別の何かつまり相対性の領域を創造することで、私はあなた方が神であると言われるだけでなく、神であることを選択できる環境を創り出した。その領域で、あなたがたは概念でなく創造行為として神格を体験できる。」
続きがあります。