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日本の発見

提供精子による人工授精で誕生した人は、その事実を知った時、自分の存在が揺るぐように感じるらしい。自分はいったい誰なのか。そもそも人は、自分がどこから来てどこへ行くのか分からないままに、自分でコントロールできない誕生と死の間を生き抜く存在。元々不条理なのだ。が、少なくとも私たちには明確な両親がいる。しかし彼らには父親がいないのだ。自分は誰の子供なのか・・・?これは相当に深刻な苦悩であるようだ。

78年ころ、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』が話題となった。黒人クンタ・キンテが自分のルーツを探す旅。現在の経綸において、肉にある私たちにはやはりルーツが必要なのだ。再建主義の富井氏をはじめとする一部のニッポンキリスト教の人々は、日本人がユダヤをルーツとしており、特に神道はユダヤ教の書き換えであるとする。新約では秦氏による伝道が古代日本になされており、いろいろな形で暗号として刻まれているいうのだ。アマテラスはイエスのことであるとか・・・・。私も宮とか寺は大好きであり、あの空間は実に心が落ち着く。三島が予言した空疎なニッポンにおいて、神的なルーツを欲する彼らの気持ちは痛いほど分かる。

・・・という話題は話題としておいても、私は古事記(712年)や日本書紀(720年)の世界に憧れを抱いている。要するにアノ世界は何なのだ。何を読者に告げようとしているのか。一説によると蘇我が打たれた時、すべての公文書を焼いてしまったと言われている。残るのは伝承。これがようやく8世紀にまとめられた。この間、いわゆる歴史的時系列としての事実あるいは事象は封印されてしまった。実に不思議なことである。

これらの文書を単なる神話として読めば、『指輪物語』のようなファンタジーとして十分楽しめる。しかし、解釈しようとするとたちまち何とも言えない茫漠たる気持ちに陥るのだ。これは一つの解を前提としている理系オツムにとっては耐えきれない。正直、ものすごく不安になる。一部の人が言うように、聖書の書き換えとしておければ、それはそれで安心もできるが、そこにハマりたくはないとも感じるのだ。そして三島があれほどに入れ込んだ天皇。これはいったい何?天皇なしの日本はあり得ないのか?つまり、国家=天皇?

ま、こういった問題意識を覚えるのは、やはり私が立派な日本人だからだろう。ルーツを知りたいのだ。窮極にはアダムとエバに行き着くわけだが、もっと近いところでルーツを見出したい。最近の私が古代史に憧れるのも多分この辺が動機になっていると思う。今年の冬は『三国志』だったので、年明けはローマ史を、同時に古事記・日本書紀の世界にハマってみたいと思っているのだ。

ファイル 3980-1.jpg

といったことを思い巡らせていると、あるところで紹介されていたKITAROの映像とサウンドに惹かれた。タイトルは"Matsuri"。アマテラスが岩戸隠れした時に、外で踊り明かした場面を表現しているとか。なるほど身体が疼く。ディスコチックでもあるし、トランス系とも言える。何か自分の深いところにあるあの懐かしい感覚を呼び覚ましてくれるリズムだ。私の内なる日本の発見とでも言えるかもしれない。

思うに、今のニッポンキリスト教がこんな有様であるのは、もともと日本人は知性で神を知る人種ではないのに、西洋経由のキリスト教が文化や思想・哲学・習俗・儀式などとして入ってしまったことにあると考えている。そもそもパウロですら言っているではないか:

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。-1Cor 1:21

自然の(Gk.魂の)人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。-1Cor 2:14

このギョウカイはあたかも小学生がスリーピースでキメルかのような鹿鳴館外交の違和感をそのままに継承しているのだ。私のオツムは元々かなり左脳的理系頭脳ではあるが、しかし一方でディスコやトランス系が好きなのは、その左脳的束縛を解いてくれるからであろうと思う。海をボーっと眺めつつオツムをアイドリングすることや自家製の脳内ドラッグでトリップすることも大好きであるし、森や鳥の声に囲まれるのも大いなる喜びである。古事記・日本書紀の日本はどれほどに美しい世界であったろうか。そこに限りなく惹かれる自分がいるのだ。嗚呼、わが内なる日本よ、お前は何を求め、どこへ向かおうとしているのだろうか。

追記:富井氏のこの論は興味深い。クリップしておこう。

tomi 2013/11/16(土) 22:10
世界の希望は日本にある
(1)
次の流れは、これまでなぜか知られていなかったために、イスラエルと日本が関係しているなどと言うとトンデモ扱いされてきた。
すなわち、
イスラエル→スキタイ→夫余族→解夫婁(ヘブル)王→日本移住→天皇
北朝イスラエル人はアッシリアに捕囚されたが、スキタイ人が解放した。
スキタイ人は騎馬民族で、ヒッタイト人とも関係があり、モンゴル系の騎馬民族夫余族と混血し、両者がシルクロード一帯を東西に移動していたのは史実。
メソポタミアの文物の影響が日本に及ぶ可能性は十分にあるし、韓半島ではスキタイの遺物が多数発見されている。
高麗本記では、夫余族の王「解夫婁(ヘブル)」が東海の五穀のよく実る地「迦葉原(カバラ?)」に移住して東夫余国を作ったとある。
古墳時代の墓から馬具や馬の須恵器が多数出土していることから、天皇家の祖先は夫余族の辰王であるとは故江波東大教授の騎馬民族説。
仁徳天皇陵など古墳からリュトン(角杯)が出ればもう決定的だ。
実際、次の写真の4000年前のメソポタミアのリュトン(上)と出雲で出土した須恵器の装飾(中)が同じ「相撲する二者」というテーマで酷似している。
http://www.millnm.net/qanda4/sumouryuton.jpg
イスラエル人がスキタイと混血し、スキタイと夫余族が混血し、その夫余族がセム系の名前を持つ王を持ち、その王が日本の王、つまり、天皇になったということであれば、イスラエルと日本をつなぐ十分に検証可能な可能性が見えてくる。
このテーマは、もはやトンデモでもなんでもない。

(2)
北朝イスラエル人がやってきた可能性はこれで説明がつくが、南朝はどうか。
この相撲の須恵器が出土したのが出雲である点に注意。
出雲は、物部王国のあった地。
物部氏は、北朝で、旧約聖書の民。
南朝イスラエル人も、同じ騎馬民族化してバビロン捕囚後日本にやってきた可能性はあるから、物部氏には南朝の血も入っている可能性はある。
また、パレスチナに戻った2万人の南朝イスラエル人の来日については、次の可能性がある。
1.失われたイスラエルのもとにイエスの福音を携えてやってきた弟子たち。
イスラエルは契約の民だったので、「必ず」イエスの福音は届けられた。
なぜならば、神は誠実なお方だから。
契約の民=「救われるべき民」なので、必ず救い主の到来を伝えなければならない。
実際、パウロもペテロも「まずイスラエルのもとに」伝道した。
ペテロはバビロンに伝道した。
トマスはインドから中国に行ったと言われる。
保険の契約を結んだ人に、条件がそろえば保険金を払うのは当然。
弟子たちは、契約の民であった人々に救いの条件であるイエスの十字架と復活を伝えて、「イエスを信じるならば契約は成就する」と言わなければならない。それが彼らの使命であった。
だから、日本に契約の民がいたならば、弟子たちは必ず日本に来ていた。
2.イエスは、紀元70年の来臨において、この契約の条件を受け入れた人を救い、受け入れなかった人を滅ぼされた。
それが、マタイ25章の羊と山羊を分ける記述である。
イエスを受け入れた人々は羊、拒否した人々は山羊。
羊系ユダヤ人(つまり、イエスを信じて救われたユダヤ人)が日本に渡った可能性がある。
私は、日本は救いを受け入れた契約の民の地、つまり、新エルサレムだったのではないかと思う。
だから、日本には、エルサレムの陥落後にわたってきた羊系ユダヤ人が集まったのではないか。
救われたにもかかわらず離散していたら、それは、滅亡の状態と同じである。
世界のどこかに救われたユダヤ人の集合場所があったはずだ。
平安京など昔の都が川を中心に作られ、その両脇に薬効の樹木が植えられ、12の門を持つなど、新エルサレムにかたどって作られたからか。
平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、すなわち、ヘブライの聖地「エル・サレム」である。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京と、よく似ていることが指摘されている。
(Wikipedia―日ユ同祖論)

おそらく黙示録に記された新エルサレムの城壁が60メートルの非現実的なものであったのは、海を示すのであろう。
日本は、海という天然の城壁に囲まれている。
(3)
日本は、救われた契約の民の集合地であった。
古代の日本人がもみあげを伸ばしてミズラとしたのは、律法の記述どおり。
衣服のそでに紐をつけた、もしくは、紐で結んだのも、律法の命令どおり。(この紐は、今でも神主の衣服に見える。)
塩や水で聖めるなども律法どおり。
物部氏は動物犠牲を行っていたが、秦氏はそれを禁止した。
かわりに秦氏が建てた稲荷神社などでは、赤い鳥居が「贖いの血」を示している。
古代において、日本人は聖書どおりの生活をしていたのだろう。
大化の改新あたりから、物部氏や秦氏の聖書的な生活は陰に回り、天皇家の儀式の中に封印されたようだ。
しかし、陰に回っただけであって消えたわけではない。
(4)
日本人がアジアの解放のために戦い、欧米列強の奴隷支配からアジア人を解放したのは、血において神につながっているからだろう。
イルミナティのレオ・ザガミが、「日本はわれわれの計画をことごとく妨害してきた」と告白した。
日本人は、無意識のうちにサタンと戦ってきたのであろう。
これからも、世界の希望は、日本にある。
ルーツを自覚して、これからは意識的にサタンの陣営と戦うべきである。

Comment

Salt

是非、またその辺りのお話をしながら、奈良、京都を歩きましょう。

  • 2013/11/16 11:02
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Luke

そうですね、京都もいいですねぇ。よろしく!

  • 2013/11/16 18:23
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shige

アメリカ(だけじゃないでしょうが)でも2世の問題が取り沙汰されます。両親は日本人だが自分はアメリカ産まれのアメリカ育ちで言葉も文化的な背景も限りなくアメリカ人。でもアメリカ人ではない。いったい自分はだれ?のような。ここは出生地主義なので国籍的には20になった時に日本人かアメリカ人かを選べますが。面白いことにこちら産まれでも多くの東洋人はなぜか東洋人同士でつるむ傾向がありますね。言葉に不自由はないのに。

でも、万物は神からいで、神によって成り、神に帰する、ということが分かればルーツの問題は解決するかと思われます。

それでも、夜ベッドに入ったあと、なぜ自分はこんな所にいるのだろう?と思うことはありますが。

  • 2013/11/17 05:07
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Luke

>面白いことにこちら産まれでも多くの東洋人はなぜか東洋人同士でつるむ傾向がありますね。言葉に不自由はないのに

これ面白いですね。言葉を超えた何かが吸引し合うのでしょうか?

  • 2013/11/17 09:51
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