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ミシュラン巡り

ピッシと締った空気が顔に痛い。たっぷり汗を流して、40℃程度の風呂に30分ゆっくりと浸かる。これでHSPも出て、今日もハッピーだ。ちょうど一昨日のトレの効果で気持ちイイ筋肉の痛みが出ている。これをストレッチで伸ばすのがまた気持ちイイ。かくして現在上半身を集中的に追い込んでいるが、チェスト(胸)と腕のサイズがUPしている。

さて、本日は、というわけだが、いよいよミシュランの店を開拓しようかと。早速見つけたのが北鎌倉の精進料理の老舗(ひとつ星)。動物性の食材を一切使わない料理ということで、その名も鎌倉鉢の木

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道元の『正法眼蔵』には「典座教訓(てんぞきょうくん)」と「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」なる章がある。中国に渡った若き道元は港で、食材を買いに来た年配の僧侶老典座に会った。彼は阿育王山(=広利寺)の典座(=食事係)だった。 道元はその老僧と仏法の話をするために、同泊を誘ったが、 老僧は、食事の準備に間に合わなくなると断った。道元は、「食事の用意などは若い者にでもさせれば良いではないか。あなたのような高徳の老僧侶が、坐禅や仏法の論議よりも、 食事の準備を優先させて、何か良いことがあるのか」と問うた。彼にはまだ見えていなかったのだ。

また道元が天童山の如浄(にょじょう)禅師の元で修行していた時に、 用(ゆう)という典座和尚が「今をはずして一体いずれの時を待つのか」 と喝を入れた。この時道元の心に「今ここ」が明確に見えた。かくして道元は、二人の老典座(食事係)との出会いによって開眼したのだった。調理も食事もすべては修行。生きること即仏道であると。

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こうして道元は台所の作法と食事の作法を重んじるようになり、永平寺ではこれらが立派な修行となるのだ。もっと言えば、掃除・洗濯・雑巾がけ、これら日常の雑事がすべて修行。要するに、座禅や仏法の学びが高尚でこれらの雑事は低級とする観念自体が幻想なのだ。今、ここにある自分の生から離脱した何かを求めること、これが迷妄である。かくして前後裁断、今ここに生きる態度を道元は求める。これが悟り、鈴木大拙はこれを「肘、外に曲がらず」として、自らの見証の辞とした。当たり前を当たり前に、「花紅柳緑、眼横鼻直」の世界に生きること。イエスも言う、野の花を見てみよ、空の鳥を見てみよ・・・と。

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